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田中一村との出会い



田中一村横顔
              
 
        
 1976年暮れ、我が家に届いた宅急便の荷物の重さに驚くまもなく、素っ気無く殴り書きされた
差出人の名に驚いた。 3,4年程前より行方不明になっていた、笹倉からのものだった。差出人
の消印
は名瀬とあったが、私にとって馴染みのない地名に他ならなかった。

 厳重な包装をあけると黒く密度の濃い塊が、ダンボールの中から出現した。それは我が家で
は到底消費しきれない量の黒砂糖であった。
 相変わらずの笹倉の意表を突く登場のしかただった。あいつらしいやり方に苦笑しながらも、
名瀬という馴染みのない地名を調べることにした。おそらく与論島の方向であろうとおもったのは、
かって彼は沖縄が三年後に返還されると、日本最南端は与論島でなくなると考え、10年ほど前に
彼は奄美諸島を訪れ、ひどく気に入って帰ってき
ていたからだ。
 それに送られてきたものが黒砂糖となれば生産地は奄美や、沖縄であろう。 この年、私も返
還5年後の八重山の石垣、西表島に取材にいってもいた。調べれば名瀬が奄美大島の中心都
市であることはすぐに分かった。

 翌1977年5月初旬、奄美の笹倉から突然電話があった。

 
「あいつから電話があったなんて里心でも付いたのかい」とやってきた江田は笑ったが、

 
「名瀬の有屋というところに、有屋の気違いと呼ばれている画家がいるから是非こいというのだ
が、どうする」ということになった。

 
「今、モサ(笹倉のアダナ)は宮崎さんが経営する焼き物店で陶工として働いているらしいのだが
、変な爺さんが時々店の前を通る。その爺さんに時には奥さんの富子さんがお茶なんぞ入れてや
るんだが、どうも只者ではないと思うんだ。地元のもんは胡散臭い爺でめったに喋らんが、ギョロン
とした目で睨みつけるから、地元のもんは誰も近寄らん。でも絵はすごいんや!」

 と時々関西弁を交えての電話なんだ。

  又、宮崎さんがこの爺さんの窮状に見兼ねて絵を買うことになり、値段を聞くと片手を出した。
「500万じゃ高いやネ」と思ったが、こんな田舎で大分吹っかけるが充分その位の価値はあるとは思
った。だがあとで宮崎さんに聞いた所50万円ということだったらしい。50万でも宮崎さんは金の工
面に四苦八苦したらしいが借金してこうたらしい。
 そんな安いのだったら俺も買いたいから、お前ら金なんとかならんか、と偉そうに言っていたがと
江田は話した。
 後日談になるが代表作の
アダンもその時50万円でいいといっていたという。
 モサの話じゃ眉唾ものだがと二人ともあしらい会話にはなるが、彼の審美眼は的が外れること
がないのは分かっているから二人そろって出かけることにした。
 当時、東京からの航路が一番安いが、足掛け3日掛かった。料金は往復で25000円ほどだった
か。
 朝方、いかにも亜熱帯の湿った空気の中、名瀬港の桟橋に笹倉が迎えにきていた。髪はショー
トカットにし、、三食きちんと食べているらしく顔もふっくらとしていた。東京時代は一日一食なんて
珍しくなかったからだ。
 4年ぶりの再会はそこそこに錆びだらけのライトバンに乗り込み、港をあとにした。

あそこに突き出た島が見えるだろう、あれが山羊島といって白い建物がシーサイドホテル、奄美
の海運王と言われる大島運輸が経営するホテルなのさ、権力者さね」
 との説明を二人は上の空で聞いているのである。
というのはガードレールも無い崖際の道路をこれまた、運転のまずさでは定評のある笹倉がハンド
ルを握っているのであるから話に身が入る筈がない。話は車を降りてからと前をむかせて15分程、
笹倉が投宿する奄美シーサイドホテルの寮に着いた。
 2階建てのこの寮には俺しかいないから気兼ね入らないよといって憚らない笹倉は,ズンズン入っ
ていった。
「こんな小さな島で寮を造っても、いまや地元の人間しか従業員はいないのだからすぐに
家に帰れる始末じゃ寮は必要ないよね」
と 笹倉は言った。

 寮の食堂で休憩し、笹倉が陶工をしている奄美焼きの店に行くことにする。
「ところでなんでお前が陶工なんだよ! いつの間に習ったのかい」
と江田。どうも笹倉と土いじりがピンとこない。
「与論で知り合った金子さんという写真家がお前、九州の窯元にいって焼き物を習って来いといわれ、
福岡の小石原焼きというところで、一年下働きをしてから与論に戻り、与論焼きをその金子さんの所
で創めたってわけ、俺が与論焼きの元祖窯元ということになるよね。 しかし、ここもろくに手当ても出
ないので、九州に行く途中ここに立ち寄った所、ここで拾われたって訳」
と意味有り気に笑った。

 笹倉は仕事に戻ったので私と江田は手持ち無沙汰であるので、表に出るとお誂えむきに店の周
りが草茫々、二人で草を毟り始めると宮崎さんの奥さんが血相変えてやってきた。

 
「 貴方たち、ソンナコツしないでもよか! ハブイルケニ!」鹿児島弁でそういった。
 
僕たちにしてみれば何日かお世話になるので、気を利かしたつもりであったが、いらぬお世話だっ
たらしい。
 
          笹倉を促し僕たちは早々に一村に会いに行くことにした。

               

       

                    


             まずトッページにある ニライカナイ という言葉について説明いたします。        
          
                  
ニライカナイは竜宮、海神宮、常世の国といわれている。
                  いわば 
理想郷,楽園 です。
                  ニライカナイについて詳しく知りたい方は
                  柳田國男著の「海上の道」をお読みください。 

 


トップページの表札と壁紙について 
  
    トッページに使用されている「田中孝」の表札は一村が奄美を訪れ、奄美に住んだ19年の
うち17年を過ごした
 終の住家となった借家に掛かっていた自筆の表札である。この物置のような廃屋同然の家は、
いまでも街中を離れると あちこちに顕著に見られる、作業小屋、あるいは納屋のような建物だ。

 この小屋を一村は改造し、手を加え、屋根には明り採りの透明のビニールトタンを張り、まるで
御殿だといってはばからなかった。
 それは、常に最高のものを作り出しているという、自信とプライドに溢れる一村らしい。だから脳
梗塞で倒れ、不自由な体であってもかれの表情に悲壮感はないのである。
 表札の掛かっているのでこちらが玄関のようであるが、体の不自由な一村には片付けは無用
のようだ!        
            
   
この表札は笹倉が廃棄処分になるところを、機転を利かして保存していたものである


 壁紙に使用しているのは、一村着用の大島紬のアップである。一村が生活のために借家の大
家さん泉さんから織機を借り、生活のために自宅で大島紬を織ったのだが、如何に一村が器用
であつても俄か仕立ての織子では無理であった。目が揃っておらず、商品にはならなかったので、
自分用に仕立ててもらって着ていたものである。
           
我が家には笹倉がとっておいた2疋のきものと千葉時代からのものと思われる着物を預かっている。

           
    一村宅 玄関 表札

   田中一村がこの世を去ってすでに27年。
   
奄美の一村宅を訪れた親友、三馬鹿の一人、江田真治が一昨年鬼籍に入った。
彼とは中学時代からの腐れ縁で、互いに絵、写真を志した。その東京時代に知り合ったのが
笹倉慶久である。1977年5月、当時奄美で陶工をしていた彼の誘いで、名瀬有屋の画狂老
人、田中一村に三人で会いに行った。
その後私は8月にも奄美に行き、一村にあった。何とか彼を記録していきたいと思ったからで
ある。
残念ながらこのもくろみは9月11日の一村の死で幕を閉じるのであるが、田中一村はこの時
から僕たちの中に生き続けるのである。
 江田は2度しか会っていないにも関わらず、一村の死に栃木から奄美に飛行機で駆けつけた。
宮崎鉄太郎氏と後片付けをし、空路、一村の妹、新山房子氏(故人)と息子さんの宏氏とともに
東京に戻り後に三人で、栃木市にある田中家の菩提寺「満福寺」に遺骨を納めたのである  。
  
  昨今、等身大の一村から離れつつ、平凡でただのおじさん画家になりつつある偶像や、
一村を純粋に敬愛してやまなかった江田真治の思い、あるいは一村の没後残された資料等
私自身が関係者の方々を取材し知り得た資料を基に、裸の一村像について書いていきたい
と思います。

 きっと今頃ニライカナイで江田君は、一村と絵談義でもしているに違いないと、僕は想ってい
るのです。

                                          
 2004年1月 記
                                                                

一村と出会った頃の三人

 1977年  5月  奄美大島  どこかの浜にて



江田真治      笹倉慶久      田辺周一

「江田が小さいので笹倉、田辺は背を合わせているので窮屈な姿勢です



 9回・田中一村会 総会・記念講演会 

     2004年, 9月5日 (日) 午後1時より 栃木市 旭町の 満福寺にて
     記念講演会がおこなわれた。

       講師は 淑徳大学教授湯原かの子
           絵の中の魂 評伝・田中一村」の著者

            主な著書   
       
       1988 「カミーユ・コローデル」
       1995 「ゴーギャン 芸術家・楽園・イブ」
       2001 「絵の中の魂、評伝・田中一村」
       2003 「高村光太郎、智恵子と遊ぶ幻の生」


     演題は「南島を描いた画家 ゴーギャンと田中一村」
   
     二人とも亜熱帯の自然をモチーフに
     ゴーギャンは奔放に。
     一村はストイックなまでな生き方を選んだ。
     共通するものは亜熱帯の自然と神の存在を意識
     しながらの絵との格闘の人生であったということだろう。

    この日の聴講者の中にダチュラとアカショウビンの所有者であり
    一村の親戚筋にもあたり、女性では唯一スポンサードしていた
    人物の菊池あい子さんの親戚の方が一村の未発表の絵をニ幅
    持参し、会場で公開された。

         

                 湯原かの子氏
                


             





  
                            


               会場で公開された一村作 2点