よんろくからの手紙








 5月に会ったとき「6月に与論に行ったらマンゴーを送るからね」と言っていたよんろくから、7月マンゴーが届いた。
高いからお気遣い無くと遠慮したが、7月に入ると早速送ってきた。顔似合わぬ律儀さが、彼の誠実さを著していて
うれしいかぎりである。また、わたしとしては、高級な果物が食べられるチャンスでもあるのである。
今年は与論島を含む沖縄県、鹿児島県は年にもまして、台風の当たり年で、先日の台風11号の折には、現在借りている家が危ないので、友人の家に非難したとあった。9月半ばまだまだ、台風は収まりそうも無い。






 マンゴーは時間をかけて大事にいただきました。





  45年ぶりの再会



 左 ヨンロク 右 私   5月10日  新宿にて
ヨンロクは私より一つしたの74歳、相変わらずの強顔だが、わたしより元気そうだ。

一昨年の夏、一個の宅急便が届いた。中身はマンゴーで、差出人はヨンロクこと渡辺一芳だった。

2013年、一村の足跡を辿って奄美、与論、宝島と取材の際、与論島で、ヨンロクが毎年夏になると与論に滞在しているという情報を得たが、住所等の連絡先を知るには至らなかった。しかし方法は分からないが、逆にヨンロクが私の住所
を知り得たようだった。
(ヨンロクは与論島図書館で私の写真集を見つけ住所が分かったとのことでした)

 ヨンロクと始めて会ったのは45年前夏、1977年8月のことである。私が28歳、彼が27歳、笹倉慶久を交えて与論島を訪れ際の、たったの3日間過ごしただけの知己でなのである。当時ヨンロクは岩ちゃんこと岩崎鉄和と与論長屋に住んでいた。与論長屋は5軒ほどの平屋が軒を連ねた、今にも飛ばされそうなバラックだった。笹倉が与論での知り合いに宿を請うた時、一つ返事で了解してくれたのがヨンロク達だった。

 その年の5月、私は江田真治と共に、4年ぶりに音信があり所在が分かった笹倉の居る奄美に一度着ていた。その折一村に会い、江田を残し一人与論に渡ったのだが、奄美から与論までの航路で日射病(熱中症)で島でも観光もままならず、与論を堪能することは出来なかった。
 そんな訳で2度目の訪島だったが、75年の人生の中でこの72時間は濃密で忘れられない思い出となった。たった72時間が私の記憶全てを埋めた、と言っても過言でないといえるくらい、ヨンロクと岩ちゃんとの与論島での邂逅なのである。



1977年、岩ちゃんにもらった名刺。記憶と同じように残るべきして残ったようだ。

先日mヨンロクに会った際、ヨンロクのいわれを聞いたのだが、当人も分からないという返事が返ってきた。
この名刺を見ると4,6,9、とあるが、どうなのだろう。


    
会ったとき怖いと思った。             今、も怖い。でも 良い男だぜ
 
 

      岩ちゃん     私       ヨンロク   (ウドノビーチ) 笹倉慶久撮影
写真集  田中一村伝説の島から 「海神の首飾り」から


周ちゃん、太ったね!と先日会った際 言われたが、当時は181cm 58kg しかなかったから
今の70kgは太っているのかも。(今でもやせてるといわれるのだけれど)

45年を経ての再会。分かるかな〜とヨンロクは不安らしかったが、マスクをしていても、新宿駅西口改札の人混みのの中でも
忘れようとしても忘れられない顔の二人。すぐに分かった。

そのうち、「与論の72時間」ゆっくり書いてみようと思う。














  田中一村展 美術館「えき」KYOTO


12日開館 いたしました。
コロナの動向によっては変更もありえますので、行かれる方はHP等
チェックしてから行かれるようお願いいたします。









月8日から開館予定の京都「えき」美術館の田中一村展は緊急事態宣言により開催を遅らせておりますが、12日開館のよていです。本日11日の
HPによれば12日開催となっておりますが、電話等で確かめてから、お出掛け下さい。





          
  田中一村展
 がこれから二箇所で開催されますのでご案内いたします。   

奄美へとつづく道」へ題して、広島県奥田玄宗・小由女美術館と京都、美術館「えき」KYOTOにて田中一村展が開催されます。お近くの方、興味のある方は是非ご来館ください。


  


      広島県奥田玄宗・小由女美術館

3月26日〜5月5日(毎週水曜日は休館、ただし5月5日は開館)

場所広島県三次市東酒屋町10453−6  TEL 0824-65-0010
http://www.genso-sayume.jp/




    京都駅 美術館「えき」KYOTO

5月8日〜6月6日(会期中無休) 10:00〜19:30





 

 私の写真も6点展示されますので、是非ご覧ください。


  

 












毎年NHKで作成される「田中一村」カレンダーが送られてきましたので紹介いたします。
 表紙は昨年見つかった「珊瑚礁上のイソヒヨドリ」です。
 
 縦73cm 横30cm  ページ数 8枚

 2020年9月10日発売  価格2970円 (本体価格2700円)

 興味のある方はどうぞ。




     





裸の天才画家 田中一村 大野芳 著
 
2月
19日発売  平凡社  2400円(税抜)














私ことながら第二章・デラシネ3人組として登場する。ある意味、若気の至りの露出であるが、この時代があったからこそ、私の今があると言っても過言ではない。半可通なアウトサイダーであったが、どうにか命脈をつないできた、と言ったところだろう。

デラシネとはフランス語で浮き草、根無し草 ということだから私たち3人の若い頃には、打って付けということで、著者の大野さんは誠にうまい名ずけ親だと思う。

そのデラシネ3人が、一村の脇役として右往左往するから、煩わしいが、興味のある方は読んでいただきたい。1960?70年代の半端者の生き様が、一村の王道をいく生き方とは相反するから、面白いと思う。

来年は広島、京都など一村展の企画があるから、楽しみである。














平凡社太陽別冊 「田中一村」発売










o多くの方が執筆しております。ぜひご一読を。
本体2500円+消費税










田中一村限定Tシャツ 田辺周一著 「海神の首飾り」 田中一村伝説の島々より  販売します

                                    



                                          「横顔」






                                          [ariya 有屋」



   上記画像2種(襟ぐりが広く、ウィメンズサイズ) 限定各80枚作製ですが  私が販売するのは各数枚です。

 WM (ウイメンズM)着丈61 身幅44 袖丈16  WL (ウイメンズL)着丈64 身幅47 袖丈17

 通常襟(男女用) S 着丈65 身幅49 袖丈19    M 着丈69 身幅52 袖丈20   L  着丈73 身幅55 袖丈22


                  左(横顔)通常の襟                        右(有屋) ウイメンズ


  各シャツ  1,2枚しかありません。

本体価格 4800円+消費税384円
商品代  5184円  (送料無料)

はがきでの購入は以下の住所にサイズ、枚数、通常襟、ウイメンズ襟をお選び頂ご記入ください
323−0034 栃木県小山市神鳥谷3−10−6  田辺周一

メールでのお問い合わせ  tanabe67@sweet.ocn.ne.jp   まで

携帯  080 5017 6229  田辺周一












  田中一村が眠る菩提寺  栃木市 満福寺

 9月11日は田中一村の命日。しかも生誕110年の節目にもあたる。
年初から美術館での展示や、メディで取り上げられた。そんな中、生誕の地、栃木県栃木市で「田中一村忌」が催された。


   満福寺  長沢住職の読経で法要が行われた。

 
  栃木市市長  大川秀子氏も参加

    田中一村記念会、会長の大木氏










 4月6日から9月24日まで箱根「岡田美術館」にて、田中一村展が開催されます
今年は一村生誕110年と、節目の年であり、7月にも滋賀県「佐川美術館」においても
一村展が開催されます。

岡田美術館の入館料は2800円と高額ではありますが、絵画、彫刻、焼物と美術品が
網羅されているとともに、箱根の一日が楽しめますので、興味のある方は是非足をお運びください。



























          「田中一村記念会」設立総会 記念講演にて     栃木市、万福寺(田中一村菩提寺)にて



 3月18日、「田中一村記念会」設立総会が栃木市の田中一村の菩提樹・満福寺で開催されました。発足総会には43人が参加、その後、DVDの放映と晩年の田中一村を撮った写真家・田辺周一氏の話に、122人が耳を傾けた。









   庭にはこの日に会わせたかのように白梅、蝋梅と咲いていた






総会が終わって田中一村の墓所に向かうと、一村フアンが集っていた。

 墓地にいた方が着ていた、ダチュラとアカショウビンをあしらってある大島紬は家が二軒ほど建つのだという。











 今年が田中一村生誕110年の節目に当たることを機に、3月18日に栃木市に「田中一村記念会」仮称が設立されます。
一村の精神を普及させアートな人材育成やまちづくりに寄与しようと、市民有志が準備をすすめてきました。18日には日曜美術館で放映された、田中一村の「黒潮の画譜」と一村を撮影した私、田辺周一の「田中一村と私」の話があります。興味のある方は是非足をお運びください。海上は一村の菩提寺・栃木市満福寺。講演会は無料だが、定員は100名とのこと。希望者は10日までに電話で栃木
グランドホテルまで(0282−22−1236)


   おかげさまで完売いたしました。
  ありがとうございました。  




  2015日 5月29日  南海日日新聞 コラム掲載









  「海神の首飾り」田辺周一写真集  発売  LIVRE(リーブル出版)
     1976年4月〜1978年8月撮影
 

   


      表紙写真は小笠原・父島
   
  「田中一村へのオマージュではないけれど、森の中から突然現れた野生の山羊を、
  僕たち三人は息を押し殺し見つめている。まるで一村が描いた奄美の杜の絵のように




 
  
 ※ 掲載写真内容

   30歳を前にしながら、亜熱帯の島々を漂流する
   仲良しトリオが出会った田中一村や若者、子供たち

   西表島の子供たち・1976年4月     25ページ


         西表島・民宿「星砂荘」 ご夫妻


           姉弟




   奄美の田中一村・1977年5月8月    25ページ





        田中一村を世に出し、支えた 宮崎鉄太郎さん

   与論島の若者達・1977年5月8月    56ページ 

   民宿の夜


 与論島 民芸館にて


  百合が浜にて


   小笠原島・父島・1978年8月       16ページ








          
田中一村をを敬愛してやまない笹倉慶久・江田真治




   A4版  ハードカバー モノクロ138ページ オフセット印刷
   価格2700円(税込み)

   

   写真集
は完売しました。ありがとうございました。

     



東京航路

 上記の航路は2014年の12月で休止となりました。
 実質、旅客の運用は廃止ということのようです。

1700Kmに及ぶ航路距離は日本で一番長い航路でした。
事業として成り立たない訳ですから、もう汎用航路としては
運行されることはないのでしょうね・・・・・。


 私と笹倉にとってもこの航路の最後の旅になりました。

http://www.aline-ferry.com/toukyou/time.html








        田中一村・黒潮巡礼 「最後の旅」

    
一村が辿ったと想像される旅路 鹿児島ー奄美ー与論ー沖永良部ー奄美ー宝島ー奄美


   和歌山沖・黒潮の中から湧き上がる大陽、陸地が近いので鳥が飛ぶ 6:25 11/8

 
 私達の行程・東京(有明)−九州(志布志)−奄美(名瀬)−トカラ列島(宝島)−奄美(名瀬)ー与論ー鹿児島 
     <2013年 11月7日(木)〜11月17日(日)
          
           

    
田中一村最後の旅となるのは、奄美に腰を据える決意をし、奄美に渡った直後に、与論・宝島・沖
     永良部島にわたると,川村氏あての書簡に記されているから、これらの島旅が最後の旅といえるのでは
     ないかと、私は勝手に考えている。

      どうやら沖永良部島に関しては資料がないようであるが、与論・宝島に関しては絵や写真が残されて
     いるから間違いと思われる。他に記載のある島もあるようだが、他の島に関しては関連資料は残っては
     いないようである。

      一村が奄美諸島に渡ったのは1957年の12月、亜熱帯の奄美諸島とはいえ、年末の北西の風は強
     く、海は荒れ、鹿児島からの船旅は大変だったと記している。

     荒れた東シナ海は本当に船酔いをする。私も経験済みで、現在とは船の大きさも違うし、なにより波消し
     装置がついていない頃の話だからだ。ましてや与論島への上陸はまだ大きな船は着けらる港がなかっ
     たころの話である。当時は艀に乗り換える方法しかなかった。母船の動きに息を合わせて飛び移るから、
     海が荒れている時は命がけだ、と一村は書いている。私が奄美や与論に行った頃も、与論は艀であった。


    今回の旅で一番私がこだわったことは、航路で奄美にわたることだった。なぜなら1977年、笹倉からの連絡で
    5月、奄美にいくため
利用したのが、往復とも船であったからだ。その年の8月、二度目の奄美行きでは鹿児島〜
    奄美航路を往復した。
      この時は車で自宅の栃木から陸路鹿児島を往復したからだ。航路は遅い、高いと最近乗る人が激減したとマル
    エーフェリーの40年来のベテラン船員が嘆いていた。台風に翻弄された10月は殆ど欠航で月に5便ある船便に
    乗客は4人だけで、まともに船は動けなかったと話していた。事実、11月7日の乗船客は沖縄までに7人で、自衛隊
    員が20人ほど。九州・志布志で1人降り、
奄美では4人おり、自衛隊員も奄美で全ておりるので、沖縄には夫婦二
    人のみという寂しい状況なのである。このままでは来年当たりに廃止か、貨物専用になるかもしれないと、話してく
    れた。
    遅く、割高な船旅だが、水平線から
の日の出や、日没の光景は、船旅でしか見られない、唯一すばらしいもので
    あった。帰ってきたばかりではあるが、貸切状態でのんびりでき、飛行機では味わえない
体験の出来るこの航路
    に再び乗ることを私は今、画策をしはじめているのである。



   
              有明港はお台場の近く・夕暮れの出港である

     今回の旅の相棒は一村が世に出るきっかけをつくった笹倉慶久、私の46年来の友である。この二人で、一村の
     旅の軌跡を辿るとともに、奄美大島と与論島で過ごした20代の日々を邂逅しようと、笹倉との道行きとなった。
     又、仲良しトリオの一人であった 江田真治の10周忌もかねて、三人が一村に会った奄美大島で、記念写真
     を撮った場所に行き、笹倉と私で記念写真を撮ることで、江田を偲ぼうか、といったたわいもない目的もあった。

     計画をたててから半年、お互いに都合がつかなかったり、台風の接近で予約していたにもかかわらず欠航に
     なったりと、紆余曲折があったものの、7日、ようやくの船出となったのだった。飛行機で行けば簡単なのだが、前
     述したような訳で、船旅となった次第である。



               
東京(有明港)〜鹿児島県奄美大島・奄美市11/7〜9日
          


       

      
       これからの三日間お世話になるマルエーフェリーのロゴ。船の名前は飛龍。37年ぶりのマークが懐かしい。当
      時の2等船室は大部屋。男女区別がない雑魚寝で、騒々しくもあり、楽しくもあった。見知らぬもの同士が奄美に
      着く頃にはずいぶんと仲良くなれたものであった。
       今時の2等船室は2段ベットの4人部屋と、豪華版?と思うのは私だけであろうか。


                          
                         18時過ぎ奄美を目指す、上弦の月の下 11/7




        
        下戸の二人だが沖縄ビールは格別   四国・ 室戸沖を航行中  10時過 11/8
      



      
            九州・志布志港到着21:00 11/8      宝島沖・6:30  11/9



      
      37年前、私達がお世話になったシーサイドホテル  奄美大島・奄美市 山羊島から見る、立神
     このホテルの寮に寝泊りした。ソテツの裏辺りにあった)

 
       
       11月9日、9時30分、名瀬港着。私達はとりあえず予約したホテルを探し場所を確認、その後レンタカー
        を借りる。過去奄美には、1997年、2001年と
来ており、見るべきところは特段ないのであるが、その折、確
        認出来なかった場所を、尋ねたいと思っていた。有屋の一村宅の正確な居住跡、奄美焼き跡、大島紬泥染
        め工場跡地、私達は寝起きした山羊島のホテルの寮、一村仮住いだった和光園などである。時間があれば
        一村記念館も見ておくことにする。
        
        明日は午前3時発の宝島便に乗るので、ホテルからは大分離れた対岸のフェリー乗り場迄、ザックを担いで
        移動なので、朝は1時過ぎには起きていたい。とりわけ今年の2月に軽い脳溢血で、足が少し不自由な笹倉な
        ので、全ての行動には余裕を持っていたいからだ。


       
私達がこの日尋ねたのは、まず山羊島。この出島にあったシーサイドホテルの支配人だった、宮崎鉄太
        郎氏が経営する奄美焼きの陶工をしていたのが笹倉。ホテルの寮であったにも拘らず誰も使用しないため
        笹倉一人、この寮で寝泊りをしていたから、私達は(当時は江田と私)奄美滞在中はここで寝泊りしていた。

          どうやら近年まで営業はしていなかったようだが、7月にリニューアル・オープンしたらしい。マルエーフェリ
        ーのパンフにもオープンの記事が載っていた。ここの創設者の有村商事はマルエーフェリー等の船運業で成り
        上がったが、2年前に倒産し、他の会社が引き継いでいるらしい。

         尋ねてみればホテルの寮の痕跡があるだけ、島民ばかりで使用される筈のない寮など、とっくの昔に解体され
       跡形もなかった。次に大熊の漁港にいく。一村はこの漁港で魚を見、または買ってスケッチにいそしんでいたらしい。
       集落の背後の高台に立ち大熊の集落を描いた、一村を想像し、二人で海を眺めた。大熊漁港にも立ち寄ったが
       昔日の面影はなく、亜熱帯の魚達を見ることは出来なかった。


          

           大熊風景・昭和30年代 (一村図録より)   大熊風景・現在 11/9






            
            宮崎鉄太郎氏が経営していた奄美焼の場所・一村が少しの間住んでいた和光園




           次に訪れたのは宮崎氏が経営し、笹倉が陶工をしていた奄美焼きの店。12年前に車で通ったときには
          まだ物置らしき建物が残っていたが、今回は今話題の徳州会病院の駐車場になっていて、新興地に変
          わっていた。

          有屋の一村宅跡地近くには一村最後の住居として建っている建物は、一村が住んでいた、有屋の家の
          近似値の家をどこからか運んできて展示している。本来あった一村の居住地は結局、私達も特定できな
          かった。建設業の置き場になった入り口あたり、その前にはビラ・イッソンと名つけられた新築のアパート
          が目に付いただけだった。



              
              ビラ・イッソン この建物の前あたりが一村の居宅跡・名瀬の夜は更ける




            このあと、一村が日課とした散歩道、本茶峠への旧道を抜け、時間があったので一村記念美術館を
          短い時間であったがちょっと覗いてきた。





             
                   本茶峠            笹倉に一村記念館のPRを・お腹がドームと同じなんてネ!




            夕刻、車を返却し、ホテルに荷を解くと、早速市内に夕食をとりにでかけた。夜の街は本土復帰60年
          記念イベントで賑わっていた。亜熱帯の島の夜の賑わいは特別なことでもなく、何時来ても賑やかなの
          は酒好きで、開放的な土地柄のようだ。

           夜中の一時、ホテルの通路で騒ぐ酔客の音で目が覚めた。

          笹倉も眠れなかったのか、ドアを開けると笹倉が通路脇に立っていた。奥の通路では嘔吐物を掃除する
          若い接客係が座り込んでいた。私達は酔客であふれ、タクシーが駆け抜ける街中を抜け、海沿いの道を
          係留された船を目指して重 い荷を背負い、食料の入った袋を手にし、はるか彼方に見える宝島行きフェ
          リーの明かりを目指しとぼとぼと歩いた。



                                  
         


                              宝島編(トカラ列島) PartT

                                       11月10日〜12日

                                 

              
                現在、宝島に一頭だけの トカラ馬・馬の目はやさしく澄んでいる


                                                 

           奄美に着いた日に尋ねた観光案内兼旅行社では、十島行きフェリーは良く欠航するので、明日の便も
         分からないので、今晩の11時か、12時にでも社に電話してくれといわれた。この船を逃すと3日はロスする
         ので、私達も真剣だ。

           予約したのは船と最初のホテルだけ。順調にいかないと何時家に帰れるか分からないから、予定の
         行程どおりに運んでほしいのである。

         車を借りたその足で運行会社を訪ねた。すると、船は港に着いているよと、目の前の船を指さした。フェリー
         十島はなるほど目の前にあった。出航30分前には必ず来てください、早くとも船は上がって船室で休んで
         くださっても問題ない、と言われていたので早めにホテルを出た訳であった。

           ようやく船に着いたものの、船上にあがるはしごはまだかけてなく、足の不自由な笹倉は難儀したが何
         とか船に上がったものの、船室には入ることはできなかった。またもやあてが外れてしまった。船の前でし
         ばらく休んでいると若い船員が ドアを開けて外に出てきた。昼間の運行会社の社員の話をすると、そんな
         ことはありませんと、笑いながら否定されてしまった。
          
           まさしく離島時間か、さもあらん。

          さて、ここで一番の疑問はどうして宝島なのか?与論島は当時の日本領土最南端であるから、興味を持つ
         のは当然で納得はいく。では宝島の選択されたのはどうしてなのか。二つの理由が考えられる。

            ○奄美に一番近いトカラ列島の島であること。  ○当時日本の原種の馬とされるトカラ馬は宝島にいた。
             一村は、トカラ馬をモチーフにしたいと思っていた、ということだろうか。



         
          午前3時発のフェリーとしま(十島)   宝島に着いたのはまだ明けやらぬ 6時過ぎ




          
                    フェリーとしまの船内にあった巨大なポスター






                  
                       宝島の地図(コノ島ノドコカニ財宝ガアルカモ!









           
        干からびてはいるがどうやらこれがトカラハブらしい・コミニュテイセンターにあった島民の写真


         
         3日間お世話になった大籠キャンプ場    風の強い冬に使用するらしい宝島港
              
            
           宝島は周囲13kmあまり。一番高い山はイマキラ岳、291.9m。島民は110人ほど。だが若い人
         が年々増えているらしい。十島村の過疎化対策として島への定住には応分の助成金が出ているのが
         最大の要因ではないかと、私は思っている。

          この島での失望は海岸に打ち寄せられた多くのゴミを目の当たりにしたときだ。これらの多くは中国
         語や韓国語に彩られたものであり、特に漁業に関する浮遊物が多かった。数度にわたる台風で島に
         打ち寄せられたものであろう。ただ、季節はずれにも関わらず、望外の喜びもあった。多くの蝶の乱舞を
         見ることが出来たからだ。

          一村の絵の中の蝶達。ツマベニチョウ・イシガケチョウ・アサギマダラ





                 
                           ツマベニチョウ








  
   イシガケチョウ          ツマベニチョウ       ビロウとアサギマダラ(田中一村図録より抜粋)








   
     リュウゼツラン                    宝島(女神山のビロウの杜)







                
                           イシガケチョウ
         
      
         




     モンキアゲハ(おまけ)                 ツマベニチョウ               アサギマダラ



          


                     宝島 PartU




           宝島を歩いてみると、この島は若い人が多いのがわかる。子供が多いのである。

          下校途中の小学生に聞いてみた。小学生が9人、中学生が4人だそうだ。未就学児や乳幼児
          を何人か見かけたから、比率的には子供が圧倒的に多いのがわかる。2割近い子供がいると
          思われる。
          しかも、まだまだ若い人が来島する予定だそうだから、島はますます活性化していくのだろう。



                 
                      宝島の子たち



           宝島の島の左手(大籠キャンプ場から見て)からイマキラ岳(291,9m)。そこから段差のな
          い尾根が続きいったん山稜が途切れて再び三角錐の山が屹立する。この山が一村が描いた
          山であることが、その形からひと目でわかる。

          女神山は標高130mで、一村が描いた色紙には、馬の親子の背景の山になっている。山ろく
          には貴重な植物群が多く、国指定の天然記念物になっている。特に目をひくのは10mを越す
          ビロウの群落で、見事なビロウが陽に映えていた。



                        
                         宝島 (女神山・130m、中腹にビロウの群生)    





              
              この先郵便局、診療所          宝島温泉(残念ながら曜日が合わず入れなかった)







               
                一村図録から抜粋            宝島の牧場に一頭だけいたトカラ馬



           一村の宝島での作品(色紙)には、山を背景にした馬の親子に鷺と、海を背景にした絵がある。
           これらの絵は背景が違うだけで、それぞれに同じような馬の親子と鷺が描かれている。また、
           一村がこの島で撮影したと思われるトカラ馬の写真も残されている。



          
     
        


                             再び・奄美大島へ
                                                11月12日〜14日


            
           宝島前籠港の前に書かれたイラスト(1997年・作)   船上からの宝島

           

            11月12日、宝島11:25分発、奄美大島名瀬行き。1時間遅れで出港。海は荒れていた訳ではな
           いが。宝島を出てしなければならないことがあった。今日の宿の手配である。奄美でのテント泊はハブ
           がと、ヘビ嫌いの笹倉は乗り気ではない。宝島にもトカラハブがいるが毒性も弱く、注意喚起の看板が
           島内にはいたるところにあったが、私は気にも留めていなかった。だが、大島のハブは桁違いである
           ことは、友人でノンフィクション作家の小林照幸氏からも聞いていたので、注意することにしていた。
           
            彼は20代でハブを題材にした「毒蛇」で開高 健 奨励賞を受賞している。また田中一村の奄美での
           生活を書いた「神を描いた男・田中一村」も上梓している。

            宝島から携帯で宿を取ろうとしたものの、私のAU、笹倉のソフトバンクでは圏外で、使い物にならな
           かった。島の人が当たり前のように携帯を使用していたがドコモだったようだ。この島はドコモじゃないと
           駄目だよ。大島もソフトバンクは接続しにくいとはなしていた。

            奄美大島に近づくにつれ、携帯がつながるようになった。安価な宿、今風の木賃宿、ゲストハウス
           「涼風」に予約をとる。港まで向かえに来てもらう。部屋は個人住宅の個室に3段ベットを2ヶおいた6人
           部屋である。
             このゲストハウスではレンタカーも営業しており、明日の予約をする。隣の部屋の大阪来たO君は
           私の息子と同じ年、誘ってやると、二つ返事で同行するっこととなった。彼は来年卒業で就職も決まり
          、時間を見つけては旅にでているのだという。最近は南米や東南アジアにも長期で言ってきたのだと、
           画像をみせてもらった。



            11月13日、今日の目標は37年前に笹倉、江田、田辺が撮った記念写真の場所を見つけ、私と笹倉で
           写真を撮ることである。9時過ぎにO君と三人、とりあえず島を周回してみることにする。瀬戸内町、ホノホ
           シ海岸、古仁屋、宇検村。宇検村の海岸沿いの漁港にはかって一村が住んでいた、40年前の有屋に似
           た佇まいが残っていたのがなによりうれしかった。今度のんびりとこの辺りにテントを張ってすごして見た
           いと思う。
      
       
                    
             意識して撮ったわけではないのに、笹倉は後ろに手を回し、私は37年前と同じように前に
             手を組んでいる。
             不思議な気がする。40年近くたっても行動パターンは変らないということか!


             奄美大島を周回したが、何せ40年も前のこと、案内してくれた笹倉が頼りだったが、当人の記憶も
             あてにならず、残念ながら三人で撮った場所を特定できなかった。とりあえずそれらしい海岸で、
             O君を入れて写真を撮った。



                             奄美大島で見た一村のモチーフ

                       
            
                    アダン                          一村図録より






                 

                         ヒカゲヘゴ



                 
                        クロトン                  ブーゲンビリア






                          
                             一村図録より       オオタニワタリ






                   
                        一村図録より             ソテツ







                      
                       一村図録より             大和村 高倉







                              
                              一村図録より          パパイヤ






                       
                        トラノオ                 クワズイモ






             
               大和村の小学校・宇検村同様、この辺りもかっての有屋のようなたたずまいの場所である








                 


    

                                     与論島へ
                                              11月14日〜16日



                   
                        地図では奄美〜与論は近いが船ではだいぶかかる


                                   
                    <1977年8月、穏やかな与論の海と母船から乗船客を乗り移すはしけ>
                         






                14日、奄美5:00発、沖縄行き。間に合うように3:30分、タクシーを予約する。歩きなれない
              笹倉の足が限界に達し、両足の親指が腫れ上がってしまい、無理な歩行が出来なくなったからだ。
              殆ど寝ない状態でタクシーを待ち、みなとの待合室で乗船を待ち乗った。

               マリフレックス(株)コーラルライン8乗船、5:50分発〜徳之島・亀徳港着9:10、9:50分発
              11時前、薄っすらとしたレンズ状の沖永良部島が見えてきた。11:35分 和泊港着 14:00発
              一時間遅れ。与論港着 14:00着 この日、与論のゲストハウスが見つからず百合が浜キャンプ
              場泊とする。レンタカーを借り、島をめぐる。15日、15:00 レンタカー返却。この日旅館、むとう泊


                
                       夜の百合が浜(与論島の代表的な白浜)






                     
                      一村図録より          与論島の磯には奇岩が多い





               与論島訪島の目的のひとつは、一村が撮影した浜辺の場所を調べること。
              一村が撮った3枚の浜辺の風景写真には一村自身が写っており、一村が愛用のカメラを使って
              わざわざセルフシャッターで撮ったことが分かる。うららかな12月の漁村風景。隆起サンゴの
              小さな岬。一村は漁から帰ってきた漁船に近づき、船の中の収穫を覗きこんでいる。写真の中の
              ステテコ姿の一村の表情ははっきりとはうかがい知れないが、開放された穏やかな表情に見える。

              ふんどし姿の漁師。着物をきた砂浜で戯れる子供。頭に収穫の魚をのせた漁師の妻。そしてスーツ
              を着た観光客らしい男。
               
               12月にもかかわらず、穏やかな浜辺の風景写真。(この写真の場所は現在の与論漁協前の港で
               ある)
              
               

               
            一村が撮った漁村風景(後ろの岬が特徴・ハッピー岬)・一村の写真の場所・与論漁港(地元の方に確認済み)


               

                      
                       一村図録より(与論の民家)     与論の民族館


                 当時私たちは一村に会ったあと、与論島に10日ほど笹倉と滞在した。その頃の与論島は
                日本最南端の島として若い人達の人気の島であり、10代=30代の若者であふれていた。
                 私達は、笹倉の知り合いであった、イワちゃんと、ヨンロクという島に居ついていた二人が住む、
                長屋に厄介になった。雨風はかろうじてしのげる程度の長屋。その長屋は一村が撮った岬の付け
                根にあった。しかもその岬の稜線には何軒のも家があった。今回改めて、その岬の尾根を歩い
                てみて分かったのは、この狭い尾根に10軒ほどの粗末な家が建っていたことである。当時は電
                気があった、水道があったか、あるいはトイレがあったかは覚えていないが、共同のトイレ、共同
                の水道だっとおもう。

                  私は今回の訪島でこの岬をハッピー岬と呼ぶことにした。

                ここには10平米ほどの小さなハウスが林立していた。ハッピーという名の家。羊という名の家。
                ブラックハウスという名の家(そこに居た居候の若い女)ワラジという名の家。



                      
                       左からイワちゃん、  ヨーコ    ヨンロク <1977年、8月>

                               (40年も経った今もヨンロクは毎年ここにくるのだという)
                            来年はぜひ、私もヨンロクと夏の与論の海に、会いにいきたいとおもう
                            <岩ちゃん、よんろく、このHPを見ることがありましたら連絡ください>
                

                そんな数々のユニークな名のついた粗末な家並みが懐かしい。37年前の記憶・・・・・・・。
                10数年続いた与論ブームも沖縄返還後、潮が曳くように人が来なくなってしまった。
                現在、本来の島に戻り、一村が訪れた当時のように穏やかな島がある。

                  今回与論訪島の目的に笹倉が住んでいた家を探すこともあった。約3年ブームに陰りが
                 出てきた頃、笹倉は本土に戻ったのだが、5年契約で借りていた仮住まいに所帯道具を
                置きっぱなしであった。すぐに荷物を取りに戻るつもりが、すでに34年も経ってしまった。
                  跡形もあるはずのない借り住いの場所に立ったが、道も建物もなかった。私がジャングル
                 と変ったヤブに突入したが、なにも残ってはいなかった。また、声を大にしていいたいのが
                今は廃れてしまった与論焼の創始者は笹倉である。笹倉が与論焼きの実質経営者であった
                金子氏の要請で、九州の小石原焼きで修行し、与論のに陶芸を持ち帰ったことから始まったの
                である。
                 
                  与論焼の跡地を訪れるとずいぶんと建物があちこちにあって、一時の興隆をしのばせられ
                 る。笹倉の言によれば、ダンボールに一杯の一万円札があふれていたのである。お人好し
                 笹倉は、ただ働き同然でここで働いていたのだという。

                   秋草や〜つわものたちの〜〜〜〜〜と与論城跡地と与論焼窯元跡に立って見る。




           
                    与論城跡                          与論焼、跡地









                 

             
              与論パークホテル。台風で大分ダメージがあった    ・与論島に別れを告げる。12:40 鹿児島行
              (わたしはこの浜でよく遊んだ、真中の赤屋根が昔の建物))
               





                       
                           朝5:00過ぎ 東シナ海 月下・「硫黄島」



                     11月16日(日) 与論島12:40〜沖永良部島14:00発〜徳之島16:50着 17:10発
                                19時頃、奄美大島が見えた。奄美大島(名瀬港)21:15分発
                     11月17日(土) 4時過ぎ口永良部島〜5時・硫黄島・そして竹島  5時過ぎ鹿児島湾 
                                6時過、開門岳が見えた 6時35分 日の出。7時過ぎ、桜島が見えた。
                                鹿児島港、8:25着 9:10 鹿児島〜博多(高速バス)
                                博多 13:29(新幹線のぞみ)〜東京18:33着



                               

                    ・・・・・黒潮巡礼・最後の旅・・・・・終
        
 







 

          

       紀の国へ・・・スケッチ旅行の(1955年6月・一村・48歳)軌跡をたどる
             
四国→淡路島→洲本〜深日港→阪和線=紀勢線=新宮・・・熊野川バス・・・瀞峡
               熊野川バス・・・新宮・紀勢本線=熊野市〜鬼が城〜千葉

                        
                             奥瀞・田戸集落周辺、杉山



                             
                              奥瀞・田戸集落  「静ホテル」



    私は2009年5月、一村が辿った九州、四国の足跡を訪ねた後、1955年、一村最後の訪問先となった紀伊半島も
    7月、訪れていました。
    しかしそれは、わずか2日だけというだけでなく、妻を伴った末、伊勢参りと古道散策が主になっており、とりあえず
    一村の足跡は辿れたものの、半可通なレポでしかなく、自分でも納得できるものではありませんでした。
    そう考えていた私に、紀伊半島での一村レポートはあえて保留することにより 足跡を辿る最後の課題、としての
    存在が楽しみのひとつでもあったのでした。今回も風の匂いをかぎながらとバイクでのツーレポを予定しておりまし
    たが、天候不順のため、車での旅となりました。

       2013年  8月1日〜8月7日      栃木(小山)〜新潟(上越市)〜富山・白川郷〜高山〜岐阜〜名古屋
         総距離 2200Km           奈良〜和歌山〜新宮〜熊野〜尾鷲〜名古屋〜飯田〜松本〜小山



                   
                紀の国は衣に黒潮、懐に杉山。それをつないで熊野古道がのびている。


   1955年、一村は九州、四国の旅を終え、疲労をおして紀州に旅立った。四国松山での知人となった田中さんの
   弁によれば、九州から帰った一村は、「かなり疲労していたようだった」と述懐している。
   九州から始まったたびは四国・鳴門から淡路、淡路から和歌山に。和歌山から阪和線に乗り、車窓の人となった
   一村は、どのような旅、軌跡をこの紀の国に残したのだろうか。1955年、戦後10年経った紀の国に何を見出した
   のだろうか。当時の交通事情から九州や四国と比べ、この山深く不便な紀の国を想像しながら辿ってみることに
   する。
    和歌山市は徳川御三家のひとつ。一村は九州、四国からの疲れをまとい、この地を歩んだろうか?。次の日朝
   一番の阪和線に乗り、新宮を目指す。海南市から見る海は初夏の陽光が青く清清しい。海岸沿いを走る阪和線は
   錆びた線路を軋ませ、段々のみかん畑の丘を切り裂いて走る。



                
       海南市から和歌山方面を見る                白浜を過ぎ遠く串本の半島が見えてくる
                               


    海南市を過ぎると、海岸線の段丘には顕著にみかん畑が現れる。国道42号沿線の道路には、みかんには縁遠い
   関東の私にはわからない、得体のしれないみかんの名前が店先に並ぶ。千葉の海と違った常緑の木々とエメラルド
   の海に、心を癒されてたと同時に、心を乱されたに違いない。小さな岬を鉄路が周り終えると、視界が開け、いか
   にも柑橘の町、有田らしい見事な段丘の景観に目を奪われることになる。
     有田を過ぎるとJRは海からしばし離れる。時には砂浜の上を。時には荒磯の岩肌を砕いた岩稜を抜けて走る。
    紀州の海沿いを走ってみるとわかるが、ここの海は石畳を敷き詰めたような岩盤で構成された磯が多い。屋根瓦
    越に見える幾重にも重なった小さな半島が続き、紀伊白浜を過ぎやがて車窓には串本の半島、潮岬が横たわって
    いる。  
                  
     今のところ、紀伊における一村のスケッチの中には、瀞峡と鬼が城しかないから、和歌山から一村は一気に新宮まで
    歩を進めたのだろうか。これといって、スケッチがない以上、和歌山も白浜も串本の本州最南端の潮の岬も、四国での
    室戸、足摺岬に寄ったようには足を向けなかったようだ。疲れていたのか、四国での岬詣でで必要なくなったのであろ
    うか。私も吉野に続いて、潮岬で2泊目となった。

                                            串本町の看板                        潮岬に対峙する大島。トルコ軍艦遭難場所方面を望む         
                                        
   

                       




     潮岬から見る黒潮流れる太平洋は、岩を噛む断崖とは違い、穏やかである。穏やか景観由に一村は潮岬を訪れなかっ
    たのであろうか・・・・・・・。
     四国では主だった岬、足摺岬と室戸岬を訪れ作品を残してはいるが、紀伊では訪れたものの描いていないのかそれとも
    訪れていなかったのか、不思議である。不思議といえば紀伊といえば日本有数の寺社仏閣、熊野三山大社、伊勢神宮、
    那智勝浦の那智の滝、などがある。しかし、これらの場所に関しても訪れた資料は残されていないから、訪れてはいないの
    であろう。実のところ作品や、残された文章からは、一村の信仰心に対する関心度を私は感じることができなかったから、
    納得する部分でもあった。
     さしずめ、神仏を尊び、神仏に頼らずの一村とでも言うべきなのだろうか・・・・・・。



               
                             串本町・橋杭岩








              
     串本・古座川河口鉄橋 (紀勢本線)                 海岸沿いには風力発電施設が多い



     紀勢本線は海から山、山から海へと断崖、砂浜、河川をなぞり、時には瓦スレスレの町並みを走りぬける。    
  

                             
             
那智の滝                             古道・石畳
      
  
一村は那智の滝や、熊野三山には言及していないが、今風の観光案内に惹かれていってみる。4年前にきた時は熊野は
   世界遺産指定になっていなかったから、古道の数も限定的であったが、今回の旅では行く先々で無数の古道の看板を多
   く見るようになった。

   私は紀伊にいたる3日前、土門拳が愛した奈良の室生寺を訪れてみた。土門が絶賛した室生寺は奈良の古刹であり、初
   期の密教美術の宝庫でもあった。前々から土門の作品に触れいたから、一度は訪れてみたいと考えいたが、寺にいたる門
   前町の看板の多さと、駐車場料金表示のやかましさに嫌気がさし、寺も見ずに室生寺を後にしていた。
    悲しいかな、今の日本の観光地は情緒もなにもあったものではないと考えているからから、私はなるべく、そういうところは
   遠慮させてもらっているが、そんな考えでは、人里離れた過疎地にしか残されてはいないのは明らかであるから、いつも私が
   好んで行く旅は、人気も賑わいもない、山深い限界集落となってしまうである。


               
       
九里峡〜瀞峡初夏・「奄美を描いた画家           瀞峡下流・九里峡と呼ばれる浅里集落付近
        田中一村」から抜粋(昭和30年・色紙)


   
一村が、四国から一気に新宮に来て熊野川を遡ったのか、前に書いたように松山から淡路、淡路から和歌山への旅
  において和歌山で泊まったのか、日程は推し量るしかないが、紀の国に入ってようやく瀞峡の入り口にはたどり着いたと
  思われる。
熊野川は新宮から本宮まで、国道168に沿って流れる。その距離およそ9里。9里峡という名称はその川の流
  程から由来する。ただ9里峡という名は死語になっているようで、地元の方に尋ねても分からない方が多かった。
    熊野川は小船集落で左右に分流する。左が本宮を通り、国道168に沿い奈良・十津川村へと流れる。右の流れは北山
  川と名前を変え、国道169に沿って北山村から流れくる。瀞峡はその北山川と名を変えた流程の前後についている。上流
  部から奥瀞、上瀞、下瀞と読んでいるらしく、下流部から中流部にかけては浅いので、スクリューは使えず、今はジェット船
  が運航されている。上流部では木造船も運航しているが、奥瀞と呼ばれている地域では、一村が描いているように、観光
  用の筏流しが行われていた。一日2回の運行とのことで見ることはできなかったが、急流を下るその迫力は、観光案内のパ
  ンフでも容易に想像できるほどだった。

   

           
        
     三県境と呼ばれる小船集落辺り・この少し下流の橋のところで北山川と名が変わる
            
志古〜田戸までジェット船が運航されている(和歌山、奈良、三重県境)




                                

            
音乗〜小松間で観光用筏乗り                   田戸の瀞風景


     
 瀞峡を見てから一村は再びバスで新宮に戻る。残された色紙作品からから想像すると、一村が訪れたのは
      上瀞までと思われる。奥瀞への道は狭く時間が掛かる三県境辺りで、踵を返し熊野に行くために新宮に戻った
      と思われる。新宮から紀勢線で熊野にいたる。海岸沿い、国道42号線の沿線の至るところには、後の一村作品
      のモチーフが顕著に見られる。



             
                    ソテツ                                       はまゆう




    瀞峡を見、熊野市に向かった一村は熊野市で宿泊したであろう。なぜなら鬼ガ城での作品には「鬼ガ城黎明」とあるから
   物理的に朝の鬼ガ城を訪れたことは想像に難いからだ。
   そして、この熊野市、鬼が城で描いた色紙のコメントには
「紀州木本海岸に風蝕岩の奇勝鬼が城あり」
とあるらしい。



                            
            「奄美を描いた画家田中一村」から抜粋                       鬼ガ城           
                  (鬼ガ城 黎明)

     私も「鬼ガ城黎明」という表題に惹かれ熊野に泊まり、早朝訪れたものの、あいにくの不順なお天気。晴れたり
    曇ったり、雷が鳴ったりと落ち着かない天気で、この日の朝もうす曇から小雨模様、往復1Kmほどの海蝕崖の
    奇景に施された危うい遊歩道は、風が通らぬ岩だなばかり。それに加え、階段状の地形の上り下りには汗が
    吹きだした。私は半日ほどかけてこの遊歩道を二度往復したが、色紙の光景と同じ構図を見つけることはできな
    かった。もとより、絵を構築している素材は足し引きしているわけだから、同じ条件の構図が無いのが当然の結
    果となるが、2度目の訪問ともなれば、存在しないと想像できてもやはり見つけたい気持ちは山々であった。もし
    地元に一村ファンが居られるなら、是非とも調べていただきたい。

     鬼ガ城の奇勝は今回で二度目だが、全てを歩いた今回、改めてこの海蝕崖風景のすばらしさに感動した。


         
             鬼が城(千畳敷)                                        鬼が城案内
    




この後、一村は名古屋に出て、千葉に帰ったと思われる。



    


    
 
      伊勢神宮                                                   お勧め・柿の葉すし

 


                               
                                 尾鷲・佐波留(サバル島)




   40年前の20代前半、カメラマン・アシスタント時代。何度も撮影で通ったサバル島。ひょっこりひょうたん島に似ている
 この無人島にベースキャンプを張り、アオサギやクロサギの撮影をしていた。船をチャーターし、岩だなにテントを張り、嵐に
 あったり、岩から滑り落ちたりと散々だったが、良い思いでとなった。40年経って訪れた島の周りの人工物は、全て変わっ
 てしまい記憶の曖昧さに自分自身落胆した。

   しかし島は少しも変わらず、尾鷲湾に静かに浮かんでいたのは感慨深い。


       ・・・・・・紀の国へ・・・・・・・


 

  










             九州・四国・・・田中一村 スケッチ旅行の(1955年6月・一村・48歳)軌跡をたどる

             千葉→熊本(阿蘇山・草千里〜高千穂〜北日向=北宮崎〜青島〜南薩摩〜長崎
                      大分・別府・由布〜四国・八幡浜〜足摺岬〜室戸岬〜徳島・鳴門〜
                      淡路島〜紀伊(今回は紀伊半島は回れませんでした。7月レポ予定です)
                                        2009年5月4日〜10日(全行程4200km)取材

 プロローグ

    1954年、石川県やわらぎの里・聖徳太子殿の天井画の製作から帰って一村の心境に大きな変化があったと
   思われる。
   元来出不精の一村にとって旅で味わった、非日常がもたらす環境の変化は、大いに旅心を揺り動かしたに違いな
   い。
   例えば北斎のように、生涯引越しにあけくれ、画作し続けた画家もいるくらいなのであるから、一村のように出不
   精な人間にとって、旅で味わう心情の大きな変化は衝撃的だったであろう。
    だからといって、一村はおいそれと旅費の工面が出来るような経済状態にあるわけはなかった。だがしかし であ
   る。旅で味わった画欲を揺り動かすあの感動を、忘れるわけにはいかなかったのだろう。
   翌年には、やわらぎの里での製作で得たいくばくかの金と知人を回って無心した旅費と縁故を頼った宿泊先の協
   力者を仰ぎ得たのは想像に難いのだが、行く先をどう決めたのであろうか。

    黒潮は千葉沖を流れる。
   その黒潮も銚子沖で右へと回流して踵を返すのだが、その源流に一村が興味をもっていたとしても不思議はない。
   しかもその流れが縁取る房総のように、亜熱帯の魚や植物に海岸線が染まっている場所も見受けられたのだ。
   千葉に住む一村にそんな認識があったのは間違いないだろう.
    当時、沖縄、八重山はアメリカの領土であり、黒潮の行き着く先は当時日本の最南端、奄美・与論であったから
   一村の視点が奄美・与論に向いたのは当然だったといえる。  
   

         1955年・6月梅雨も明けやらぬなか、一村は九州に向けて旅だったのだ。


            
                  別府少し手前の乗り換駅・ここで一村はホームから水田風景を
                     画いている。当時のままの駅舎というのが嬉しい。





                                鹿児島へ

  今回の旅は一村が1955年、6月に九州、四国、紀伊、とスケッチ旅行の足跡をたどる旅である。
 熊本は宮崎鉄太郎氏が健在であればまわったのであるが、鬼籍に入られたのと、1991・6月の火砕流で
 雲仙は変わってしまっているので、割愛しました。尚、今回のレポは私の都合で九州は一村とは逆に鹿児
 島から北上しました。
  今回の旅の相棒はやわらぎの里・同様・BMW・R1100GS。1998年製、走行距離・26263KM 。

 
電車や車では得られない、風と陽と臭いを感じつつ、一村が感じた万分の一でも、との旅立ちです。

 
   5月4日PM

  山仲間との足尾での2日間の山行を終え、風呂にはいり、慌ただしくバイクに荷を積み15時前小山を出る。
 R50から群馬大田で北関東道に乗り、関越道、信越道、長野道と乗り継ぎ、松本インターで20KMほどの渋滞、中央
 道、名古屋から名阪神道、神戸湾岸道を経て乗水インターより山陽道に乗る。この間、長野飯田、京都、で渋滞に巻
 き込まれる。さすが連休である。その後姫路近くで事故渋滞。2台の車がめちゃめちゃである。自己反省しながら24
 時近く、姫路・白鳥 PKにて夜食。走行距離763km。
 さすがに疲れたので、白鳥PKの人気のない芝生の上にマットをひき、シュラフを掛け4時間ほど睡眠をとる。

   5月5日、AM5時、白鳥PAを出発。鹿児島を目指す。7:40 広島市付近で走行距離1000km。10:45 九州に
 入る。走行距離・1220km。 13:13 熊本・1400km。最期のサービスエリア鹿児島・桜島SA 15時。その後下道
 にて指宿にいたる。17:00、 総走行距離 1620km。高速料金(北関東道・大田〜鹿児島・・3200円・ETC割引適
 用で)

  九州は3回目であるが初めての指宿。夕闇に突出した開門岳に感動したが・・・・・・・・ちかれた・・・・・・・・。


                         
                             開門岳(一村は描いてないけれどね)


   さて今夜の塒を捜さなければと指宿のフェリ乗り場の駐車場で休む。ここを遊び場にしている地元の方から
 情報を得る。指宿といえば砂風呂・温泉、夕食は地元の生きの良い海の幸という按配だ。どうせ今夜も野宿で4日連
 続のテント暮らしだから、夕食くらいは奮発する。温泉は個人経営の銭湯風呂に入る。ここでバイクでここに来て、住
 みついたというA君と知り合う。その後彼とはフェリー乗り場の駐車場で、酒を飲みながらのバイク談義となった。



  5月6日

 目覚めてみれば、5月だというのにテントの中には、わが体のまずい血を吸った蚊が、大儀そうに飛んでいたので叩
 き落とした。通りであちこち痒いはずだ。一晩ぐっすり寝て、改めて我に返ってみれば、どうやら随分遠くにきたものだ。
ここから 一村の足跡を尋ねて、粛々と家に帰らなければならない。

  昭和30年6月17日、鹿児島、と消印のあるハガキでは

 「写生の旅に出て阿蘇山に登り高千穂を探り、山又山、谷又谷の北日向より熱帯植物繁る九州南東岸の青
島へ来ました。更に薩摩半島の南端まで行き、又北上して長崎に行き、四国に廻り、紀州熊野川まで見て帰る
予定です」

                                            田中一村           
車中にて
  
 
  私の場合はこの順番ではまわれないので南薩摩・指宿から北上していくことにします。
 
 南薩摩に立ち寄った一村が、桜島や開門岳を見ていないはずはないのであるが、いずれも作品として残ってはいない 。
 特に 私が感動した開門岳のスケッチすらないのだから、一村という人間はちょいとヘソ曲がりなとこが多いにある人
 だ、と私は常々思っている。彼の画法が意識的に既製概念を無視する、という基点を踏襲しているように思えてならな
 いからだ。それが、一村のヘソ曲がり理論と捉えている所以である。
  この後、
「アダンの画帖」の著者でもある中野惇夫さんと7年ぶりでお会いするのだが、その話しをすると、宮崎さ
 んに見せて いただいた一村のスケッチブックには桜島はあったが、開門岳はなかったと伺った。
 
  A君から桜島へフェリー
で渡ったほうがいいよ、とは聞いていたが鹿児島から九州道に入り、加治木ジャンクションか
 ら東九州道に乗り換える。中野さんが住む曽於市への高速道は標高3,400mの山並みを縫って走る対面通行の道で
 ある。
 右手に櫻島を拝し、人家のない山中を走る。
  
  2001年、奄美、田中一村記念美術館オープンに際し、記念講演を頼まれた私は5年ぶりほどで中野さんにあった。
 「今は新聞社をやめ、鹿児島の田舎で晴耕雨読の百姓をはじめたから、機会があったら着てください」と、笑いながら
 言った中野さんの言葉が忘れられず、今回の訪問となった。
  一村発掘の発端となった宮崎さんも、、奄美を去った後は熊本でビワの果樹園を切り盛りしていたから、中野さんと
 いい、厭世的生活に余生を見出しているのは、一村の生き方にシンクロしているのだろうか。否、一村の生活は隠遁
 生活ではなく、より自分の生き方を見出すためのものであったのだから、自己発見の為の晴耕雨読ということなのか。

  あまりの農村地帯なため、ナビの付いていない私のバイクでは中野さん宅にいきつけないと判断し、突然の訪問で
 あるが電話をする。案の定、田舎なので道を教えても無理といわれ、道の駅にて待ち合わせ、ご案内をおねがいした。
  着いた先は、回りの屋敷とは違い、まだ、新しい家である。尋ねると、この地に百姓をするため、新たに土地をもとめ
たのだという。


                       
                                一村の遺品の刀と(中野氏)

 記者時代奄美で宮崎氏に会い、一村を知り一村の生活と絵に対する精神に触れ、失われゆく日本人の魂をそこに
 見出した
中野氏は、絵という媒介に触れずに一村を書いたが、その当時、一村に関する資料が不足なままの上梓であ
 ったため、後編を書きたいらしいが、制約が多く、裸の一村を書くには環境の整備が待たれると同時に、一村の絵の世
 界を日本のみならず、海外へ展開したいとも力説していた。
 私の本は一村の素顔を現すための一里塚であり、いつか、誰かがとの思いが強いと話していた。

  それにしても、一村とあったのは私が20代後半、中野さんが一村を知ったのが30代前半、若かった二人も既に還暦
 を過ぎた。話題は一村の亡くなった60代についてだ。特に中野さんは一村が逝去した年齢、69歳であるから、心中穏や
 かではないと語る。
 私も60代という年は私の先生と知り合った年と重なり、思うところがあるから、思いは同じようで、頷いてしまった。しかも
 、最近中野さんは、心臓に異常を感じ、見てもらったところ、不整脈があることが分り、農作業は制限され、自家菜園程
 度の農業しかしていないとのことであった。
  私も憧れる、晴耕雨読の人生を、垣間見させていただきありがとうございました。わざわざ、国道まで道案内をうけ、一
 路、日向路、青島に向かう。 
 



 
             
   
青島 色紙 田中一村展図録から抜粋                           青島にて

   「海ハ碧玉 空ハ緑玉 批榔樹ノ葉ハソヨグ 南国ノ夢アリ」


 色紙に書かれた青島はまだあけ染めぬ陽に金色に輝き、日の出を見るために海岸で待つ一村が想像できる。
 私が見る青島はなんの変哲もない、面白くもない海岸風景が広がっているだけで、洗濯岩風の海岸線とあいまってビ
 ロウ樹が必要以上に植えられ、砂浜をなぞっているだけであった。

 R10号線を日豊本線に沿って走る。日向市から椎葉村を目指す。椎葉は一村のスケッチコースからは外れるが、釣り
バカの私にとって九州での憧れの地であるから、椎葉は外せない。椎葉で竿を出すのも今回の旅の目標の一つだからだ。
椎葉村は平家落人の里として知られ九州の背骨に当たり、とてつもなく山深い、それだけに昔ながらの家並が残り、手
付かずの自然が多く残っている筈である。中野さんも椎葉はいいとこだよ、と推奨していたほどだから、ハンドルを握る手
にも力が入る。
 土砂災害で迂回を余儀なくされながら、細い道を辿り、夕刻、ようやく着いた椎葉で、5日目の野宿が待っていた。今夜
こそ布団の上でねるぞ、と意気込んで宿探しをするも、連休最終日にも関わらず、宿は皆しまっていたのである。私の予
想に反し、観光客みあたらないから不思議である。これが関東なら、大賑わいのはずなんだが、と思いつつ、雑貨店で簡単
な食材を求める。
 走り出してまもなく、先ほど、雑貨店の店先で宿について尋ねたお年寄りが手を振って待っていた。私の母親ほどの年で
あろうか、「なにもないけれど、家でよかったら泊めてあげるよ」と心配していただいた。
そんな旅先での見も知らない人々の得もいわれぬ親切は、なににも変え難い、旅の喜びである。このことだけで、旅をし
てよかったと、心底おもったものだ。まだまだ日本人、捨てたものではない。悪い奴は上にいる人間なのか・・・、と妙に納
得して丁寧にお礼を述べて、奥椎葉のキャンプ場を目指した。
 危なげな舗装と心細くなるほどの九十九折の山道を辿るが、一向にそれらしいキャンプ場は出てこない。小一時間、あ
きらめて戻ろうという頃、足元の斜面に立派なキャンプ場が見えてきた。コテージ、プール、炊事場、管理等、。何億もか
けたようなキャンプ場が奥山に取り残されたように、街路灯の下に寂しくあった。
このキャンプ場は、やはり宿の取れなかった福岡から来た私と同年代夫婦の方と3人の貸切となった。


  5月7日

 福岡のご夫妻には、食材を殆ど持っていなかった私は昨夜の夕食ならず、朝食もご馳走になってしまった。
機会があれば、福岡のお店にいつかよりますと、お礼をのべ別れる。来た道を椎葉まで戻り、村を過ぎたあたりで左折し
、高千穂方面にむかう。しかし道路わき下を渓流が流れ、釣欲に抗えず、渓に下り竿を出す。30分ほどであったが、椎葉
の山女魚が挨拶にきてくれて気を良くしアクセルを開ける。

 一村は高千穂、北日向(岩戸村や日之影町)で何点かの作品を描いている。北日向という地名はないので、日向とは
宮崎県であり、宮崎県の北部の総称として、一村は称していると思われる。又、高千穂とある作品は、段々畑や、迫出し
た峻崖な山々の景観からして高千穂近辺の日之影町や岩戸村当たりの作品と見られるが、私が訪れた岩戸村の景観
が酷似していることからして作品の場所は岩戸村あたりと推測される。



    「岩戸村ハ天岩戸ノ伝説ノ土地ニシテ岩戸峡岩戸神社アリ老杉老楠鬱蒼タリ  サレドバスハ通ヒ村ニハ洋風ノ店
    舗建チナラビ村娘皆洋装ニシテ裁断ノ事ヲ語ル銀座街頭風景ト幾何モ隔ラズタダ嶺上ノ雲ト田畦ノめずしノ花トハ
    太古以来ノ姿ナルベシ」

 一村は上記のように、北日向(高千穂、岩戸)の印象を書き残している。しかし作品の中(色紙)に描かれているめずしの
花(ミヤマシシウド・地元の方に確かめました)やマルバタケブキの花が大変めずらしかったらしく、モチーフとして描いてい
るのであるが、関東でも山里に行けば、顕著に見られる山の花であり、このことが一村がいかに出不精で、遠征すること
もなく街から殆どでたことのない、めずらしい画家であるともいえるのである。ただ、この絵に疑問を残しているのはマルバ
タケブキの植生は四国、本州となっているから、この北日向のいかにも不自然なマルバタケブキの花は、四国でスケッチ
した花を描き足したと思うのは、どうだろうか、一村が九州にも植生するとして、足し算したのかもしれない。このことは後
に出てくる由布岳の絵にも言えるのである。
    


            
         山村6月・北日向にて                    岩戸村寸景
         田中一村展図録から抜粋

 高千穂、岩戸、日之影とめぐった後、阿蘇に向かう。

実のところ普段から山や渓流に足を運ぶ私にとっては、阿蘇の雄大さも、高千穂峡の懸崖に掛かる滝やコバルトブルーの
渓水も箱庭的で決して珍しいものではない。伽藍のような源流部や、飯豊朝日の山の深さに比べれば、残念ながら劣る
といわなければならない。しかも観光客の多さに壁壁として、さっさと先に進むことにする。阿蘇草千里の作品は2点ほどあ
るようだが、そんなわけで阿蘇は簡単にスルーし、大分別府と進むわけだったが、なぜかバイクの調子が気になり、熊本
市のBMWのディラーにむかったものの、連休でやすみであった。

 熊本から九州道にのり、大分道に乗り換え玖珠インターで降りる。この近くに久留米から大分に向かう久大線にある恵
良駅に寄るのである。一村はこの駅で、今は廃線となった小国線にとの乗り換えで待つ間2点の作品を色紙に残している
。図録では僻村暮色と題し暮れなずむ、水田風景」を同アングル、同色調で描いている。

             「恵良駅ニ至り日暮ル田ノ面ニ映ル夕雲旅情哀切」

  恵良駅での上記の一文がある。


             
        恵良駅から・田中一村展図録から抜・        現在の恵良駅(山の形に注目)


 駅のホームに佇み、ホームから眺める恵良の風景は水田ばかりか、建物で埋められ、54年の時を経て、往時を想像す
るばかりであるが、駅舎に昭和4年造と銘があるのを客待ちのタクシー運転手の方に教えていただき、感動した。
当時そのままの面影を残しているのは、望外の喜びであった。しばらくホームに立ち尽くし、暮色の中で一人、筆を運ぶ一
村をしのんで感傷に浸りつつ、駅舎を後にした。まもなく、R210の道すがら、由布岳が垣間見えてきて、道の駅で休憩しな
がら一村作品と見比べる。

 シシウドを前景に大きく配した由布岳は、この位置から見ると山稜が左下がりで、一村の絵は右下がりである。どうデフ
ォルメしたとしてもここまで変えるわけはないので、構図に近い視覚を見つけることにする。道の駅のインフォメーションで
地元の女性に聞くがどうやらこの位置は特定ができないようである。「由布岳の裏の塚原かしら、それとも北東部かしら、
あそこはシシウドが昔から一杯咲いていたからね」
と執拗に相談にのっていただいたが、決定打はでなかった。親身に相
談にのっていただいたBさん、ありがとうございました。



                       
           由布岳田中一村展図録から抜粋                  湯布院の裏側(塚原高原から見る)

 由布岳の回りを2時間ほど掛けて、一村が描いたアングルを見つけようと走り続けた。
それは「一村が描いたスケッチ先の場所が特定できたら面白いよね」と言われた中野さんの言葉が変に私の耳に刺さっており
、拘っていたからだろう。今夜こそは5日間の野宿生活に終止符を打つべく早めに別府に下り、宿探しと決めていたのだが
、こんなに由布岳のアングルに苦労するとは思わなかった。しかも一村の旅行期日と一月違うので、温暖化で時期が早
まったとはいえシシウドの開花時期にははやかったから、シシウドの姿さえない。ほぼ由布岳を一周したが、残念ながら
この絵の由布岳は見出せなかった。それらしい由布岳がみられたのは、道の駅のBさんが言われた湯布院裏側、塚原高
原あたりからであった。
どう贔屓目にみても、左肩上がりに見える由布岳は存在しえなかった。
連休の終わった別府の町は夕方にも関わらず、閑散としており、私も6日目にして駅近くのビジネスホテルに投宿となった。
                                                  ここまでの総走行距離2535km。


  5月8日

 今日は九州ともお別れで、フェリーで四国に渡る。   (8:00〜9:15着 運賃バイク込み・2800円)

一村もこの別府から四国八幡浜にわたったのではないかと、大矢鞘音氏が書いていて、私もそう思うのだが、私の場合
は都合上四国に一番近い航路、大分市から突き出た半島、佐賀関半島から豊予海峡をわたり、佐田岬半島の三崎をめ
ざす。



                   
                     海上からの由布岳(佐賀関港・別府湾から))


フェリーが港を離れ、デッキに佇む私の眼に、次第に春霞の中に薄れゆく大分市と別府市が見えて来た頃、由布岳の謎
が解けた。

 それは、別府市の上空にあたかも蜃気楼のように由布岳があり、その由布岳こそ一村が描いた由布岳そのものだと思っ
たからだ。あれほど捜した一村の由布岳は四国に渡る船上でスケッチしたものだったとは、まさに以外だ。海上に浮かぶ由
布岳にシシウドをあしらい描いたものだったとは、想像できなかった。しかも一村がとった四国への航路が別府市からのも
のだったら、もっとのしかかるように由布岳が見えたのだろう。私は一村が書いた由布岳がこのアングルだと確信しながらも、
、霞の中にまどろみ消えていく由布岳に不安を残したのだった。

 やっぱり一村はヘソ曲がりだ。

 
9時30分、佐田岬を埋め尽くす巨大な風車群に迎えられ、1時間30分ほどの船旅を終え、四国路に入った。
四国に入って、R56を南下する。宇和島を過ぎた辺りから潮の臭いに混じって柑橘系の香りが心地よい。お遍路さんも連休
と、不景気な今の時代背景を表してか、かって無いほど数が多い。沿道ではミカンは終え、春ミカンなつみや、西内小夏とよば
れるミカンが、店頭に並ぶ。お店で尋ねると今の花は夏みかんの花だという。地元で民宿も商うという沿道のお店で、讃岐ウド
ンを食べ、
「見かけは悪いけれど美味しいよ」というナツミというミカンを頬張る。店主のいうとおり、芳醇な甘さが口の中一杯
に広がった。もう一個と思い求めようとすると、通りすがりの地元のおばちゃんに、残りの一袋を買い求められたが、そのおば
ちゃんに、2個ほどただで、譲っていただきました。宿毛市からR321に乗り換え、土佐清水市へ、立串を経て足摺岬に。
 一村の四国の旅は別府から船で八幡浜、そこから松山の知人宅で2日間休みをとり、一週間ほどして、この知人宅に再び
戻ってきたのだという。順路としては室戸岬から足摺岬ということが想像できる。


            
「室戸ハ奇石累々 足摺ハ断岸千尺 太平洋ノ怒涛ハ 脚下ヲ噛ム」



                                  
         足摺狂濤・田中一村展図録から抜粋                         足摺岬
  
 足摺狂濤と題した一村の絵は、まさに足摺りの荒々しさを如実に物語っている。脚下に広がる断崖は群青の浪に洗われ
行き場のない岩肌は執拗に海蝕される。迸る潮は、一村の荒ぶる心を物語っている。この場所からは海面近くに降りられない
ので、足摺りの他の場所で描いたのではと思われる。
 5月初めの温度は思えない暑さに閉口し、足摺り散策路を早々とあきらめ、R321から四万十市でR56に乗り、室戸岬に
向かう。須崎市で高知自動車道に乗り、南国インターで下り、R55を走る。時間も18時近く、安芸市のビジネスに泊まる。
                                                           総走行距離3022km



   5月9日

 朝食を食べ、7時半には出発する。このビジネスでは朝食をサービスしていただいた。助かりました、社長夫人様。
室戸岬まで約70km。今日の予定はここを往復し、高知道から高松道に乗り換え、香川県の三豊に住む、学生時代からの絵描
の友人に会うつもりだ。その後、神戸に渡り、一泊し、紀伊にいくか、それとも家に帰るかはそのとき考えてみる事にする。
まずは室戸である。海岸に沿って走るR55を朝のさわやかな空気を切りながら走る。昨日と違い、今日は週末なのだが、車は
少ない。しかも九州、四国で感じることは、バイクのツーリストは皆他県ナンバーばかり。それも関東ナンバーが多いことだ。
関東では土日祭日ともなれば、パーキングエリアにバイカーが一杯であるが、こちらは総じてバイクのりが少ないように感じられ
る。
 とそんなことを思いながら快適に四国路を走る。バイクで走るのは30年前に12日ほどかけ友人と二人、回って以来だ。その後
15年前の10月には家族で一週間、四万十の源流から河口までキャンプ旅行して依頼である。20代に京都に住んでいた頃、訪れ
た四国に魅了されていらい、4度目の四国であるが、今後の四国通いは続くだろう。

 間違って展望台に上り、360度のパノラマを味わってから、奇岩の浜辺に着いた。一村の絵に描かれた奇岩を見つけるべく
散策路を歩くが、ライダーウエアで、なんとも熱くて絶えられないので、一度バイクに戻り着替えてから出直すことにする。
ここでも公営の土産屋兼インフォメーションセンターの女性にお世話になることにする。図録を持ち、それらしい場所を尋ねる
ことにする。「特徴ある斜めに倒れ加減の岩は潅頂ガ浜にあるが、この場所の左右の岩の間はこんなに切迫してないから、違う
のかな」
とCさん。「いや、画家は引き算足し算するから無いものも足してくるし、それともこの55年間でこの大岩が無くなったと
いうことかな」
と私。おそらくここだろうと思われる場所を載せてみましたが、中心んぽ斜めの岩と手前の岩だけは間違いと思いま
すが、アングルと岩場所大きさが大分違っているようです。

 一村はこのあと足摺岬から再び松山の知人宅で休み、予讃線にて鳴門にいたり、連絡船で淡路に渡る。このときの「平瀬」
いう色紙の作品がある。その作品に寄せたコメントによると淡路島の福良から淡路島交通のバスで洲本港へ、そして航路
深日港、深日から阪和線、紀勢本線で新宮、熊野、瀞と足を運んでいる。


                     
          室戸岬(潅頂ガ浜か?)                  室戸岬(潅頂ガ浜・奇岩)
          田中一村展図録から抜粋


 そのご私は紀州詣でをあきらめ帰宅することに。

帰路は高知道、高松道から友人宅に寄り、再び高松道、高松東道、神戸淡路鳴門道を経て、阪神道、から名古屋、中央道、長野
道、信越道、関越道、北関東道、自宅。

 安芸ビジネス・7:30 3022km〜香川友人・14:40分 3260km 10日、2:30 自宅着  総走行距離4020km

  今回 紀州部分の田中一村 スケッチ旅行先はレポできませんでしたので、7月改めてレポいたします。


この項終る

   中学 ・ 道徳 ・・・・・・きみがいちばんひかるとき 3 ・・・・・・ 光村図書出版株式会社から抜粋


    4,5年前に田中一村が中学の道徳の教科書に採用され、来年度から改めて改訂されて採用されましたので
    抜粋ではありますが、紹介しておきます。


             孤高の画家、田中一村


  画家、田中一村は、50歳のとき千葉の家を売り払い、奄美大島に移り住んだ。
 「画家たるものは絵筆一本を携えて、飄然と漂泊できるようでなくてはならぬ」とは
 生涯を独身で通した一村の口癖であった。

 やがて家を売った金がなくなると、食費を得るために大島紬の小さな工場で染色工
 として働き始めた。工場で懸命に働き、その間は絵を描かなかった。
 何年か働き、生活費が少したまると仕事を辞め、金が続く限り絵を描く、このような
 生活の繰り返しだったから、物置小屋のような粗末な借家に住み、着るものといえば
 きちょうめんに洗濯された下着だけの極貧の生活であった。

 奄美に移り住んで19年。夕食の準備をしているとき心不全でたおれ、69歳の生涯を
 終えた。


             
                 作品を描き続けた奄美の借家

 一村は奄美での苦闘生活を通して十数点の花鳥図を残した。絵に全てを注ぎ込み、無垢
 な心情を奄美の花や鳥に託し続けた孤高の画家の作品からは、自然のにおいや音が感じ
 られる。

                 
              座右の書であるピカソの画集を見る一村

 
    
 

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