素顔の一村

 1977年、5月 僕たちは奄美にいる
友人笹倉の誘いもあり航路、東京を後
にした。
 当時笹倉は、奄美シーサイドホテルの
支配人、宮崎氏の経営する奄美焼きの
店で働いていた。
店は富子夫人が切り盛りし
その店で陶工として笹倉は働いていた。
 行方不明となっていた笹倉と会うのは
3,4年振りだったかと思う。ひとまずは笹倉
が居を構えるシーサイドホテルの寮に腰を
落ち着ける。

一村宅前で一村が栽培する苦瓜
2年ものだというのに錆びだらけのライトバンに乗り
相変わらず下手糞で危うい笹倉の運転で海沿い
の崖際の道路を一村宅へと向かう。
手ぶらではと町はずれの雑貨屋でアイスクリーム
を買う。
「知らない人には会わないよ」という素っ気無い
宮崎氏の言葉が気にはなるが、少なくとも笹倉は
初対面ではないので安心する。
ちょうど、名瀬市の外れになるのだろうか、ちょっ
とした集落の突き当たり、100Mから200Mほどの山
並であろうか、その山裾に一村宅はあった。
お義理にも住まいとはいえない荒屋には
住人の者と思われるパンツが一枚、軒先に干して
あった。
前庭は猫の額ほどの菜園らしきものが植えてあった。


 
屋根には明り採りのためにビニールトタンが
笹倉の呼びかけに一村は嬉しそうである。
晩年、脳溢血で倒れ体調のよくない一村は、孤独感
に、人恋しかったと思われる。
私と江田が栃木からの来訪であることを告げると
一瞬、怪訝な顔をしたが、まもなく打ち消すように
笑顔に戻った。
 栃木と聞いて一村の事を聞いた僕たちが
たずねてきたのではと邪推したのだろうと思う。
僕たちが偶然、栃木からの来訪であることは
すぐに分かったはずであり、この時点で一村に
関心のある人間が栃木からわざわざ来るべくも
なかったからだ。
笹倉は親しそうに足を崩し座ったが、私と江田は
足を崩すことなく対座した。



                                

裸電球ひとつの屋内は目が慣れるにしたがって
何もないガランとした板の間に体が不自由にな
 かったためか、手の届く範囲に生活品が置いて
あった。
 「田中さん、写真を撮らしていただいてよろしい
ですか」と尋ねると「どうぞ」といってにこやかな
返事が返ってきた。
そのとき改めて見た一村の目は、少年のように
澄んでいた。
                  、




 苦瓜をスル









 











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 一村宅 台所



















 一村宅 洗面器と洗濯機







 
一村は僕たちを前にすると堰きを切った
ように話始めた。
普段一村は寡黙で、話をしないと聞いていたが
絵の話になると顔色が変り、饒舌になった。
聞き手はヘボな写真家、絵描き、陶工ではあるが
思うところは同じであるから、話は弾んだ。
しばらくして、私は席を辞し、屋外に出た。
梅雨明けの亜熱帯の青空を刺すかのような苦瓜が
玄関先に実り、南側にある庭先にはわずかばかり
の菜園もあった。
玄関脇の台所を覗くと、雑然と食器やガラス瓶が
置かれ、脳血栓で倒れて不自由な一村の現在の
境遇が想像できた。
これほどまでの孤独と貧困の中で、純粋に絵を
求道する一村という人間に会ったという嬉しさに
、シャッターを押しながら熱い想いがこみ上げてき
た。


台所は体が不自由になった性か
乱雑ではあったが一村なりの食理論
があり、酢を使用した食生活であった
ことが台所から見てとれる。