一村と小笠原   (愛知県海部郡甚目寺町にて)


                 
                  小笠原 登  


         


 1958年(昭33年)12月13日、田中一村は姉・喜美子との蜜月的な生活を清算して、生涯でもっとも長く住んだ
千葉を離れ、奄美大島名瀬に渡航したのだった。この一村の思い切った行動の基点には能登・聖徳太子堂の天
井画の製作や、その後訪れた紀伊、四国、九州への旅で一村の視点に大きな変化があったのだろうと思われる。
 その一村が最初に荷を降ろしたのが、梅の屋という下宿屋であった。しかし懐の寂しい一村が金のかかる下宿屋
に長くいられるわけもなく、岡田藤助氏の知人の紹介状先が奄美和光園の小笠原登ということもあり、足繁く和光園
に通ううち一年程で、小笠原の宿舎に同居するにいたったのだった。しかも小笠原自身、前年(昭和32年)の9月11
日に和光園に就任してばかりなのである。



 『小笠原 登  1888年(明21)7月10日生〜1970年(昭45)12月12日死去 享年82歳

        
愛知県海部郡甚目寺・太子山円周寺の僧侶の家の三男として生まれた。江戸末期、円周寺は荒れるにまかせる寺だっ
たが、小笠原の祖父にあたる小笠原啓実が再興したという。この円周寺のある甚目寺は京と関東を結ぶ交通の要所で
あった。その甚目寺町には尾張四観音筆頭である甚目寺観音という名高い観音があり、しかも天智天皇が病気平癒の
勅願寺にしていたといわれ、治癒祈願のみならず、寺院内で施場、治療を施していたため、その繁栄の理由は交通の要
所というだけではなかった。
 その繁栄の様子が国宝・一遍上人絵伝の中に、この寺が題材にして描かれており、その絵伝の中には病人、老人、物
乞いなどが描かれており、その中で白装束に身を纏った人々はらい病(ハンセン病)患者と類推されるのである。当時、
放浪しさ迷う、ハンセン病患者にとって、こういった繁栄する門前町は恰好の拠り所となっていたのだろう。
 その甚目寺観音から東より100mほどのところに、小笠原登が生まれた、太子山円周寺があった。祖父・啓実は漢方医
であり、ハンセン病も治療したという。だからこの寺の境内には患者のむしろ小屋が数多く立てられただけでなく、世すべ
ない患者の共同小屋さえ設えてあったのだという。感染を怖がるものを叱咤し、啓実は治療を手伝いのものにぜったいう
つらないからと説得し、治療に専念したのだという。事実、ハンセン病がうつらないのは今は自明の理であるが、人間の形
状を著しく損なうこの病気の患者をみればそう思うのはいたしかたなかったろう。そんな祖父・啓実を見て育った小笠原が
その祖父の信念を踏襲し、ハンセン病患者の社会復帰の為に生涯を捧げたとしても不思議はないのであろう。




           生家・円周寺                                     
  
 
             


 小笠原は1911年(明44年)京大医学科に入学する。23歳
 1915年(大4年)卒業。卒業後直ちに医学部副助手となり、薬物学教室に勤務する。10代で結核を病んだが、この年
 結核が再発し、2年間の療養生活にて、この病を克服した。その後京大に戻り37歳で医学博士の学位を授与される。
 それと同じくして医学部付属病院の副手として皮膚科泌尿器科教室に移る。この当時は今からすれば、ハンセン病患者
 は多く、大学病院でも診察患者は一日、20人から30人にも及んだという。この当時のハンセン病患者の対応の主流が
 隔離政策で、当時、ハンセン病治療の旗かしらであった光田健輔は、一般患者と一緒に診察する大学病院を、自叙伝

 『回春病室』
で隔離診察をしなかったことを非難している。しかし京大ではそんな隔離的診察はしなかった。とりわけ小笠
 原は感染を恐れて、全身防護服に身を固めたような医師や看護婦と違い
、白衣を纏っているだけで感染を恐れるそぶりを
 
見せないばかりか素手で患部を丁寧に診察するのだった。祖父から学んだ経験から、小笠原には畏怖はなかったからだ。
 しかし、
小笠原のハンセン病はうつらないという主張は当時の隔離政策に真っ向から対立するもので、らい学会の異端児
 であり、陽の当たる場所とは縁のない医師であった。

 1948年(昭和23年)60歳。小笠原は京大を退職する。
 退職後も厚生技官としてハンセン患者の治療を続ける。
 1957年(昭32年)69歳、国立らい療養所・奄美和光園医官として就任する。
 1966年(昭41年)、78歳。和光園を退職。
 1970年(昭42年)82歳。逝去。遺骨は遺言により無縁仏に納める。


  
            小笠原の眠る・無縁仏墓

一村が小笠原にあったのはまさに奄美和光園に就任した翌年のことである。
 
一村50歳、小笠原69歳であった。画壇に抗する一村と医学会に抗する小笠原、年齢こそ違うが、社会通念の殻を被らぬ
 二人であった。

昭和33年(1958年
)の暮、小笠原への紹介状をもって現われた一村に、事務長の松原若安はまた、都会からの食い詰め者が
やってきたかと、内心呆れていた。しかしこの男一村がただの食い詰め者とは思えなかった。誠実で礼儀正しいばかりでなく
明快な絵画論と人並みはずれた知識
をもっていた。一本筋の通った理論の持ち主同士、しかもお互いの世界の異端児である。
気が合わない筈がなかった。
 

                 
   
 『やがて私の時代が来る』  大場 昇著 (皓星社)によれば、この当時和光園の官舎にひとり暮らしの小笠原に恰好の
話し相手が現われた。まずは、言わずと知れた一村である。半そでにゴムぞうりでふらりと島を訪れ和光園の事務長の松原若安
が「また変なのがやってきた」と顔をしかめたという。僧侶の福田恵照。福田は東本願寺系の布教師で、カトリックの強いこの島で
唯一頼りにしたのが、東本願寺派の小笠原であった。そしてもうひとりがレントゲン技師の中村民朗だという。この男はいわば小
笠原の個人秘書のような役割をしていたという。
 この四天王に時折、事務長の松原若安が加わり、四天王ならぬ五天王となり、小笠原の家にあつまり夜のふけるのも忘れ
宗教や哲学や芸術論が論じられ、賑やかだったという。この小笠原の部屋には、閉ざされた奄美の暮らしにあって尚、文化の
臭いのする別世界の小宇宙をなしていた。
 「よその世界からやってきたよそ者の寄り合いだ。奄美周辺の島々には見知らぬ他国の情報や風俗をもたらしてくれる外来の
者を「客人(まろうど)」として歓待する風習がある。客人は海のかなたの「
ニライカナイ(常世の神々の楽園)」から幸を運んできて
くれる祝言人なのだ、と大場は書いている。

 今となっては小笠原の隔離政策に対する言及が正当であることが明らかになったが、らい学会の主流が隔離政策である
ことが当たり前であったその当時、小笠原は中央から追いやられ、不当な処遇を受けていたのだった。一村もまた、画壇という
大きな壁の前に、牙を折られながらも、この奄美で純粋芸術の構築をめざしていたのだった。

一村と小笠原、この二人はまさにニライカナイ(常世の神々の楽園)から、奄美に幸を運んできたかに見えるが、ボクはそんなこと
より、この二人がどんなことを論じ、どんな話題で談笑していたのか、気になって仕方がないのだ・・・・・。


 
参考文献・『やがて私の時代が来る』  大場 昇著 (皓星社)
 甚目寺町・甚目寺町教育委員会パンフより

    終る


              一村のアルバムの中の女
              千葉市郊外、越後屋商店にて(姉・田中喜美子)2008年4月


1977年、5月。奄美名瀬市、有屋の一村宅で、私が写真をやるということで、見せて
いただいたアルバムの中に封じ込められた妙齢な女性の数枚の写真。私がその女
性について興味を持ち、一村を知る方を尋ね歩いたものだが、未だにその謎の女性
の正体の手がかりは掴んでいないが、あきらめた分けではない。私の中では依然正
体不明なのであるが、ここではあえて、一村を支えた女性について書いてみようと思う。



              
           
               喜美子・写真中央(撮影者・越後屋店主、牛腸{ごちょう}さん)
        喜美子と住込み先、商店主夫婦と子供と同僚(昭和37,8年頃、喜美子56,7歳)



                
                          今も残る集合写真を撮影した橋


 一村のフアンにはなぜか女性が多い。なぜなのだろう。一村の生き方が非生産的で
非現実的、わがままで独りよがり。ただただ、ひたすら自分が信じる画道だけに生きてい
る、周りにこんな男がいたなら、好んで近寄ることはないだろう。しかし、一村の元を足早に
去った女性がいる反面、田中喜美子のように弟、一村を信じ、姉である前に女としても、
人生を捧げた喜美子について書いてみたい。

 一村の死後、NHK、日曜美術館に取り上げられ、南日本新聞社の記者・中野惇夫氏が
「アダンの画帖」を上梓し、一村の名が世に出るとともに、最初に私達に取材にきたのが
湯原かの子氏だった。その湯原さんの著書「絵のなかの魂」は出版まで紆余曲折があり、
随分長くかかったが、2001年上梓された。又、一村映画製作の夢を抱き、長い年月奔走し、
終に映画「アダン」で自分の夢を具現化した、コーディネーター・三角清子氏も、女性である。
他にも、支え続けた遠縁に当たるが菊地あい子氏などもその一人であるが、これほどまで
に彼女達を駆り立てた一村の魅力とはいかなるものなのだろうか。
 湯原氏の女性としての精緻な目で調べた、紋きり型でない喜美子像に触れるべく、千葉
を訪れた。

 千葉市郊外、市道を離れ路地裏にその商店があった。店は一村と喜美子が住んでいた
千葉寺の住まいからそう遠くなく、おそらく2,3kmあまりであろうか。この店がこんなに近い
のは喜美子が意識的に選んだように思われる。

姉・喜美子は昭和33年、一村が奄美に旅たった後、遠縁に当たるが菊地あい子氏宅で手
伝いをしながら暮らすはずであった。しかししばらくして、菊地宅を出ることになった。私が19
97年菊地宅を訪れ、姉・喜美子の話しに及んでは、あの人は・・・と苦々しい顔をしたから、
二人の間になりやら確執があったのだろう。
 喜美子が自分で職安に足を運び職を見つけてきたのが、雑貨店・越後屋のお手伝い。住
み込みで店主夫婦の子供の面倒をみたり、家事をした。オープン当初の写真を見せていた
だいたが当時店主は大手の製鉄会社に勤め、奥さんが店を切り盛りしていて、とても手がた
りなかったのだという。


 59歳で亡くなった晩年の田中喜美子氏を知る、越後屋店主・牛腸さん夫婦と娘さんにお話
を伺った。
   
     
             牛腸さん母娘                  牛腸さん御夫妻

 当時小学生だった恵子さん(次女)は喜美子さんについては良く憶えていて、お母様共々、良
くお話を聞くことが出来た。
 先ず一番驚いたことは、湯原かの子さんが喜美子について10数年前に取材に訪れたきり、ど
なたも、訪ねてはこなかった、ということである。姉・喜美子についての顕彰は、一村研究にとっ
て、欠かせない要素であると思っていた私にとっては以外な話しであった。そんなわけで、牛腸
さん家族は、田中一村について殆ど知識を持ち合わせていなかった。

 店主の牛腸氏はカメラが大好きで、家族の写真を撮っていたとのことで、喜美子の写真が多数
あるのではないかと期待を寄せたのだが、多くは整理し、処分してしまったとのことで最初の画像
一枚のみであった。本来なら、写真は入学式の写真やら店で働く写真等、牛腸さんが撮ったスナ
ップ写真があったということだったが、誠に残念なことである。牛腸さん母娘の口をついて出るあ
のおばちゃん、という呼び方から、喜美子は小母ちゃんと呼ばれていたらしい。私が店先で話しを
伺っているときに店を訪れる常連の年配の方々は喜美子のことをよく憶えていて、「ああ、あの小
母ちゃんね、とても面倒見の良いおばちゃんだったね」という同様な答えが返って来る。

 唯一残された、自宅近くで撮った集合写真に写る喜美子はどうであろうか。
湯原さんは著書「絵のなかの魂」でこう書いている。

※ 喜美子が世話をしていた子供が小学校に入学した時、いっしょに記念に撮ったという写真を
見せてもらった。50代後半のものだろう。年齢よりはずっと若く、後ろで纏めた黒々と豊かな髪と
整った目鼻立ちには美形の面影を留めているが、目に力がなく、寂しい印象を免れない。かって
一村が撮った肖像写真のういういしい官能性、永遠の童女といった華やいだみずみずしさは失わ
れ、10年の過酷な年月の苦労が影を落としている。
(この写真は湯原さんが所有しているとのこ
とで見ることができなかった)

 確かに湯原さんが書いたように、5年間に及ぶ、所帯染みた生活は彼女にとって、辛いものだっ
たに違いない。だが、橋の上での牛腸家の集合写真を見ると、彼女は一村との蜜月的な生活とは
異にした
越後屋での生活に、別の意味の生きがいを見つけていたと思えるのである。
 「時々、奄美にいるという弟さんに、送金していましたし、妹さんのところにも時々主人やお手伝い
の男のひとがお金を届けていましたね」
 
「いつも髪を後ろに結い上げ、良くターバン巻きにしていましたよ」
写真をみると、彫りの深い端正な顔立、黒々とした頭髪は、とても60才に近い女性とは思えない。
雇い主の子どもを抱き、レンズの前に座る喜美子には、穏やかで充足した女の笑顔がある。よほど
居心地がよかったのだろうか、住み込みなどしたことはないだろう、かっての分らない生活、越後商
店の5年間
やめることなく昭和40年、5月帰らぬひととなった。

異端の画家、田中一村の姉として、画道のパートナーとして、ストイックに生きた喜美子の、この力
の無い笑顔の中に、女として諦めらきれなかった母としての顔が垣間見えるのがなんとも悲しいの
である。
 「子どものことは親身になって面倒みてくれましたよ」
 「だから小母ちゃんのことは良く憶えているのよね」と牛腸さん母娘は懐かしそうに笑った。

                                                        

 追記
牛腸さんの娘さん、斉藤恵子さんから、喜美子小母ちゃんの写真が本日送られてきた。恵子さんは、
子供が大きくなり、大分写真は処分してしまって、お姉さんのアルバムから抜き出し、私の元に送っ
ていただきました。お借りした、その写真を掲載します。

            
         1964,5年正月か(喜美子58、59歳)            1963年4月牛腸恵子さん小学入学式で(喜美子57歳)




                                                        



 

             石川県羽咋市、やわらぎの郷・聖徳太子殿にて 2008年5月3日
                        一村天井絵・薬草48種


                                




10年ほどまえ、バイクで羽咋を目指したことがある。やはり今回と同じ頃、残雪の残る信越路を走り、
北陸路に入った辺り、バイクの調子が悪くなり騙しだましなんとか金沢には着いたものの、エンジン内
部から部品がボロボロ零れ落ち、旅を続けることが出来なくなった。羽咋を前にして遭えなく金沢で踵
をかえしたという苦い経験があったのだが、今回もまた、懲りずでのバイク行となった。


このレポを書くに当たって、一村が奄美和光園で知り合い意気投合し、6カ月余り生活をともにしていた
反骨の医師、小笠原登についても、並行して新たに調べ始めていたのだが、偶然とはいえ、一村と小
笠原の出会いのためのキーワード、聖徳太子が、二人に不思議に作用していたのを知った。
 そもそも、一村が能登の付け根の羽咋に来ていなかったら、関東から足を踏み出したことの無いほ
ど出不精の一村が, その後の九州地方スケッチ旅行へとは繋がっては行かなかっただろう。このことは、
小笠原との出会いも奄美での絵の製作ももなかったに違いないのだ。

 昭和29年、一村はこの羽咋敷浪出身で、大阪で手広く食堂を経営する北橋茂男氏が構築中の宗教
法人やわらぎの里に建設した聖徳太子堂に納める薬草48種の絵の制作を依頼された。北橋氏はオム
ライスやカツライスの考案者で、これらのメニューで人気を博し店舗(北極星という名だそうです)を拡
充していった、この地の立志伝の人なのである。いわば元祖外食産業の創始者ともいわれている。そ
の北橋氏がこの敷浪に広大な敷地を求め、やわらぎの里を創ることで社会還元するということだった
ようだ。
 その北橋がなぜ一村を知り、天井絵・薬草48種の依頼となったかは、湯原かの子著「絵の中の魂」
ではこう書かれている。

一村が絵を依頼された経緯については、創設者が園内に薬草園を作る計画で薬草に詳しい画家を捜
しており、おそらく薬草研究家で創設者の懇意の利根先生(四国出身で大阪に住んでいた)が仲介し
たのではないか、ということであった。


この文章を読む限り、二人とも関西人であり、関東をでたことすらない一村に行き当たるのはどうも無
理があるようだった。かっての一村支援者が関西におり仲介したかも知れないが、どうなのだろう。現
在この里の管理する松永氏によれば、浪越徳次郎氏の紹介だったのだという。「指圧の心は母心」の
コピーで人気を博した、超有名指圧師でそのキャラクターとあいまって、テレビでも引っ張りだこだった、
あの浪越氏の紹介というので、ますます、訳がわからなくなった。
 浪越は「貧乏な絵描きを知っているのだが、使ってくれないか」と話しを持ち込んできたのだそうだが
、一村と浪越、この二人の縁はどこから来るものなの、反って謎が増えてしまったようだ。

 一村はこの年、工事中のやわらぎの里の作業小屋に40日余り逗留し、周辺の山々を歩き、地元にあ
る薬草のスケッチに明け暮れたのだという。かくして10月には北橋氏宛てに、次のような葉書を出して
いる。



                  
        
      1954年9月29日                  やわらぎの郷を管理する 松永御夫妻


 1954年9月29日、一村は天井絵の依頼者、北橋氏に千葉寺から嬉しそうに葉書を送っている。

※ 太子殿天井繪は30日夕刻までに目出度全部出来上がります 10月2日朝(上野5,55発ー21,12敷
  浪着)の汽車で参ります 天井繪はチッキとして1日に出荷して置きます
   不取敢右まで(とりあえずみぎまで)
                                9月29日


 この葉書の文面には、ようよう仕事を終え喜びを顕にした一村の表情が、ありありと読み取れます。
千葉を離れ姉、喜美子の呪縛を逃れ、様々なプレッシャーから解放され、敷浪で過ごした自由な一村の
魂は画業の方向性を見つけ出したに違いない。
 何十万坪もの北陸の広陵地帯、千葉の海では感じることの出来ない海の臭い、人気のない原生林の
中で一村は昆虫のように藪に座り込み、自然の一部と化して、一心に自然の狭間を覗いたに違いない。
能登の夏は透明感に溢れ、動植物を醸し出し、一村に囁いた。その声は一村の中で押さえていた旅への
誘いを喚起するには充分であったろう。
それでなくとも、渚に立てば否応なく、オホーツク海や東シナ海へと続く日本海が目の前で踊った。
 
 翌1955年(昭和30年)、一村が天井絵を納めたやわらぎの郷は、完成した。そして旅情を駆り立て始
めた一村も、旅への誘いには抗しきれず、初夏の千葉を後にし九州へと旅たつのである。
これが能登の海から奄美の海への旅の序曲となった。

 太子堂に納められた天井絵、薬草48種を松永御夫妻の説明を交え見せていただいた。薬草48種と
あるが実際は7×7枚の支那ベニアに画かれているもので、総枚数が49枚ある。先般、千葉一村会・一村
のアトリエの掲示板で懸念されていた、天井絵の雨漏りに拠る破損、損壊は石川県立美術館の紹介で
修復業者を紹介してもらい、屋根の修復、屋根裏、天井等の清掃、絵の修復を終え太子像の頭上に納
められていた。この太子像も昨年の能登半島地震で台座から落ち壊れてしまい、陶製から鋳像にしたの
だという。昨年はこの太子堂に随分お金が掛かりましたよ、松永さん。このご時世ですからこの郷の維持
管理は厳しいものがあるのだとのことだった。
そのほか別棟にある一村の作品も見せていただいた。仏壇の下の袋戸棚左右に画かれた清楚な蓮
図であった。  



    
  
 1954年 一村が40日余り逗留していた作業小屋                 


 
  
 太子堂と一村・天井絵48種(実際は7×7で49枚ある)                     
                                                      
さきに述べた
一村と小笠原登との縁であるが、先日取り寄せた小笠原の自叙伝、「やがて私の時
代が来る」大場昇著
によれば、小笠原の生家愛知県海部郡(あまぐん)甚目寺町太子山・円周寺
で生まれたというが、この円周寺には聖徳太子作と伝えられる太子像が祀られているという、小笠
原もまた、偶然にも聖徳太子というキーーワードとアマ(奄美、海部)というキーワードは奇妙にも
一致しているという事実は私の考えすぎであろうかとおもうのだが、私もまた、太子に引かれて愛知
にいくことになるのだろう。

                                                終









    エピソード 


『1996年 11月の奄美での田中一村展、フォーラムにて』
         (20年目の田中一村と題して)  上  新聞に寄稿

  創世記以来人間はニルヤ、あるいはニライカナイ(竜宮、楽園、常世国)を
 求めてきた。
  そのニルヤとはどこにあるのだろうか。北方か、東方か、地の果て、それと
 も海中の彼方か。

   1958年12月、田中一村は住み慣れた千葉を離れ、陸路鹿児島を経て
 船旅の末、ニルヤに近い島、奄美大島にいた。


   1996年11月9日、名瀬市制50周年記念事業「田中一村フォーラム」で
 の講演の為に、空路羽田から鹿児島、鹿児島から奄美大島へと3時間あまり
 で着いた。20年前の3日間にも及ぶ船旅を考えると、隔世の感がある。
 空港で我々4人、長谷川建夫、恵子さん夫妻(栃木市の田中一村会事務局
 長、当時。現在、会長)笹倉慶久(元、奄美焼陶工)そして私を出迎えてくれ               
 たのは名瀬市関係者と奄美一村会事務局の岬さんだった。                    
         
  笹倉が無理をいい、一村ゆかりの地を何ヶ所か
回ってもらうことにした。本茶         
 峠(ふんちゃとうげ)を経て名瀬市に至るつづら折の旧国道を走る。現在はト          
 ネルが出来旧国道はすっかり通りが途絶えてしまったという。                                
     
 本茶峠は一村が体力維持の為に、毎朝散歩コースとして良く歩いた道、だが
 有屋の一村宅から本茶峠まで約12キロもある。散歩コースとしては遠すぎ
 はしないか。私も山や沢を歩いていて、いささか足には自信があるが、それでも
 山坂道の往復24キロを歩くとなると6時間はたっぷりかかる。もし一村がこの
 距離をこなしたとしたら、かなりの体力、脚力だろう。しかも紬工場への通勤の
 ための準備時間を加算すると朝の2時前には起きなければならない。どこから
 このような話が出たのかはわからないが、はなはだ疑問な話である。
  岬さんが「ルリカケスがいましたよ」と叫んだ。4人は一斉に車窓に目を走らせ
 たが、残念ながら姿がない。
 「この辺は鳥が多く、特に田中さんがモチーフにした鳥、ルリカケスやアカショウ
 ビンが良くみられるフィルドなんです」と岬さん。どうやら島の洗礼を受けたばかり
 の私達には姿を見せてはくれないらしい。
  本茶峠を下りると、東シナ海を望む小さな岬があり、木製の展望台がある。
 展望台はふた抱えは優にありそうなガジュマルの古木に沿って建てられて
 いる。幹を取り巻いてつけられた木製の階段を登り始めると、4、5人で一杯に
 なりそうな踊り場があった。
  湾を挟んで対岸の岬の鼻に、海を割って屹立する小島がある。周囲は100m
 位か、黒潮の波に洗われて、静かに東シナ海を見つめている。
  奄美ではこのような小島を立神(たちがみ)と呼ぶ。
 「神の宿る島」航海の安全や豊漁を祈願するのであろうか。なんの変哲もない
 小島にも、島人の思いが込められている。そして一村も又、思いを込めて立神を
 描いた。
  その立神の立ち示す方角に、ニルヤがあるのか。それとも内なる原生林に
 あるのか・・・・・。


                  
 
  
 

    (20年目の田中一村と題して) 
         

  有屋の地名は神の国、あるいは竜宮(奄美諸島から沖縄にかけての島々では
 (ニーラ、ニルヤ、根屋)と呼ばれる神域があったところからきているのではないか
 。
  屋が有る、屋は神の場所、神域があると読める。                           
   背後の山々は昔から神山と呼ばれて、一村の居宅のあった場所付近には、
 カミ降臨場所であるトネヤと呼ばれる建物がある。そこには女性のみのノロ(巫女)
 が住み、祭りを司り神の降臨を行う。
   有屋の変人,奇人。あらゆる偏見用語が田中一村に与えられた名称だ。それを
 知ってか知らずか、一村はいつもランニングにステテコ姿、そして地下足袋かゴム
 草履。頭髪はいつでも整っていたものの、ベレー帽にルパシカスタイルの画家の
 イメージには程遠い。
   画家だといわれても、島民は信じがたい。どうせ本土で食い詰めた得体の知
 れない人間だ。目つきが尋常でない。ましてや無口で無愛想だ。ゆすりたかりの類
 いだろうと、一村に会ってみるとその意識が変わってくる。眼は子供のように澄んで
 いる。謙虚で礼儀正しい。しかし自分に厳しく他人には寛容だ。
 「俺に言わせれば、田中さんは今様良寛だな!仏道と画道の違いこそあれ、王道
 目指して奄美の軒先をひょうひょうと,清貧を説法しながら歩いているようなものだよ
 」                                                              
   1977年5月、有屋に向かう道々、笹倉はハンドルを握りながら一村について
 こう説明した。
  路地前の空き地に車を止め、ハイビスカスの咲き誇る路地を、強くなってきた午後
 の日差しに買ってきたアイスクリームを気遣いながら、ニルヤに住む田中さんの家に
 向かった。
 


       



     
(20年目の田中一村と題して)   下
  

   一村フォーラムレセプション会場で、フォーラム参加者の院展画家の松尾敏夫氏
 芥川賞作家の大岡玲氏、ノンフィクション作家小林照幸氏(神を描いた男 の著者)と
 会った。
  小林氏とは栃木市での取材からの顔見知りでもあった。又、これから田中一村を書
 くのだという芥川賞作家の高樹のぶ子氏は、取材を兼ねての飛び入りでの参加であ
 った。
   会場には一村が好んで描いた奄美のモチーフ、アダンの鉢植えがところどころに
 ディスプレーされていた。鉢植えのダチュラは高さ1.8Mほど、一村の絵のようにた
 わわとはいかないが、大小5個のトランペット状の花がついている。高樹さんもダチュ         
 ラに気がついて、鉢植えに近づいた。一村の絵に描かれたダチュラは、キダチチョウ
 センアサガオ。メキシコ原産。主に鎮痛、鎮静剤などに用いられる麻酔薬である。そ
 んななまはかな説明をした後、ダチュラに顔を寄せた高樹さんにカメラを向けた。
  ダチュラとアカショウビン、この絵は一村の代表作のひとつである。たわわに咲い
 た花の下、ほんのりと顔を赤らめた柔和な眼差しのアカショウビンが翼を休めている
 耽美で官能的な絵だ。
  初めてこの絵を見た時、ある女性の写真の記憶が甦った。それは20年前、有屋
 の一村宅で見せられた、アルバムの中にあった。
  「あなたは写真をおやりだそうですが」と言って一村は重ねた書物の下から一冊の
 写真アルバムを取り出した。
  アルバムをめくると、画作の記録写真と一緒に人物写真も数枚。写真は良く撮れて
 いる構図もうまい。惜しいのは古い二眼レンズの為か写りが悪い。暗室技術も習いた
 てかうまくはない。だが素人写真ではない。ページをめくる内異様な写真を見つけた。                                                               
                                                                                                       
 それまではいずれも絵をストレートに撮った写真ばかりであったが、それには人物が
 写り込まれている。床の間に掛けられた一村の絵を背に、見事なまでに正座した、
 レンズを正視する女性の写真に眼が引かれた。
  美人である。道行の和服をきた33、4歳位だろうか。色香漂う女性である。印画紙の
 状態から見て、だいぶ以前の写真に違いない。次のページを開くと、背後の絵とアン
 グルを変えて同様の写真が二枚、貼られていた。
   1986年、南日本新聞社から出版された一村の自伝ともいうべきアダンの画帖を
 読んだ。道行の女性の謎を解くべく、本の中ほどに掲載された姉、喜美子の写真
 を、何度も何度も食い入るように私は見た。
  違う! あのアルバムの女性と印象が違う。もっとその女性は艶やかだった。まして
 や妹の新山房子さんでもない。一村の亡くなった年に新山さんには会っているから、顔
 形は確認している。カメラを見つめる眼には、愛情が感じられた。しかも男への愛だ。
 消失していく記憶の中で、唯一判然と残る瓜実顔の輪郭とたおやかな肩の線。そんな
 センチメンタルな残像が、ダチュラとアカショウビンの絵とオーバーラップしてくるのだ。
 喜々とした表情で絵を描く一村は,魂の安らぎを感じていたに違いない。
   1995年秋、意を決した僕はダチュラとアカショウビンの絵の所有者に会いに東京
 に出たのだった。