一村 エピソード


 僕たち三人を前にして一村は新聞の切り抜きを
もち出した。
 「今日は絵の批評をさせて頂きます」といい、
真剣な面持ちでしゃべりはじめた。
その絵は見覚えのある絵であった。確か何年も
前にある新聞社で日本の画家と題して、年間を
通じて特集したものであった。
 一目でそれが東山魁夷の絵であることがわかる。
特徴てきだということはとりもなおさず一家言をなし
たともいえるが、私の好きな絵ではない。やさしく
きれいだとは思うが、緊張感のない画面と訴求感
のない絵柄はただ、耽美的なだけであると思う。
簡単な言い方を借りれば、魂が感じられないとい
うことでしょうか。
 「この波は海から派生した水の生命が感じられず
、蛇口から出た水道水のようだ!
」と一村は言い切
った。
後で分かったことだが、一村と魁夷は東京美術学
校では同期であったらしく、後年、このことは一村が
魁夷をライバル視していたのであろうとのもっぱらの
下馬評であった。
 またこの話は絵心のある人には、よく話題にしていたらしい。






『ライバル 東山魁夷
『武蔵野の秋』
一村とは親戚筋にあたり、生まれも栃木県である
菊地あい子さんを尋ねたのは95年の秋であった。
年嵩の一村と顔見知りであった少女は、奄美の
晩年までの一村を支えていた一人でもあった。
 「ダチュラとアカショウビン」の所有者でもある
菊池邸を東京のマンションにうかがった。
 一村に見せられた写真がきっかけで、その女性
が菊池さんではないかと思ったからである。
 残念ながらその女性は菊池さんではなかったが
姉、喜美子ともおもわれない私は、納得がいってい
ない。このとき聞かされたのが、「武蔵野の秋」で
ある。
一村さんからはがきが来て傑作ができましたから
是非あいさんにお見せしたいといってきたのだが
その作品が死後見当たらないというのは不思議
なのですということであった。

武蔵野の秋はいずこにありか?
 



一村を罵倒する

笹倉は青森出身であるが、青森出身の奇人・変人は多いが
例にもれず、かれも又、変わっている。
四国八十八箇所は二十歳の時に済ませ、そのときより魂の
衣を剥ぎ取ったらしい、というのは奄美焼きの前を通る
一村にある時
「お前のようなくたばり損ないの爺は、早く死んでしまえ!」
と怒鳴りつけたのだ。
一村はその時
 「元気のいい若者だ」
と言って笑っていたと
宮崎氏は真顔で言い、笹倉に謝るよう進言したものだった。
 笹倉は次の日、頭を丸坊主にして反省の意を表したという。
 実のところ笹倉は一村の素晴らしさと相反して、不甲斐無
い自分に向かっての怒りだったらしいが、最悪の環境のもと
描いた一村の絵を見て、思わず一村を罵る言葉となって
発してしまったという。
 今では笑い話になってしまったが、その後時折よく一村の
家を訪ね、声を掛けることなく静かに見守っていたという。

一村とアイスクリーム

 
私は一村の家に2回程訪問していますが
1977、5月の末と8月の初めです。初めての一村宅訪問に際し
手ぶらではと気を使い何か買っていくこととなりましたが、さて
何を持っていくかが論議のもとになりました。大げさなものは
反って失礼だし、生活に困っているのは分かっていましたが
あえて生活臭の有るものは避け、アイスクリームに決めました。
僕たちなりに悩んだ答えでした。
 「溶けない内に」
と一村にアイスクリームを進めると、一村はフタのあけ方が分か
らず、ちょっと戸惑い手に持ち替えましたので笹倉がフタを開け
ました。
おそらく一村はアイスクリームを食べたのははじめてではなかった
かと想像しております。 
                  
宮崎氏   笹倉         一村  1977.8月